『ナイロビで愛をみつけた男』(1988,nairobi)

この話は、世界一周の途中、北アフリカを横断して、ヨーロッパへ戻り、ロンドンからギリシア、トルコと旅をして、アテネからカイロ経由ナイロビ行きのエジプト航空の往復切符でナイロビに着いたところから始まる。

実は、昔の有名な日本人宿リバーハウスの話とか、早稲田大学探検部がコンゴで恐竜を捜して朝日新聞社から冒険旅行の本を出そうと、調査不足のまま無理なことをやって、マラリア感染者を出した話とか、まあいろいろあるんだけれど、それはまた別の機会に譲って、いまもなお僕の記憶に残る一人の旅行者の話をしたいと思う。 

1)ナイロビで安ホテルへ三段跳び

2)本格的旅行者がやってきた!

3)斎藤氏との出会い

4)ビクトリアフォールズ旅行計画

5)人は愛を求めて、旅を続ける

1:ナイロビで安ホテルへ三段跳び 

ナイロビに飛んで来た時は、正直言うと、かなり恐がっていた。

ナイロビ空港に飛行機が降りようとすると、マサイ族が弓矢で射落とそうとするとか、空港ロビーに時々赤ん坊をくわえたライオンが歩いているとか、入国審査官がパスポートを食べたので良く見たらゴリラだったとか、いろいろな、いかにももっともらしい話を聞いていたので(おいおい、これがもっともらしいかよ!)緊張していたのだ。

カイロ空港で深夜に会って、同じ飛行機に乗ったナイロビ駐在の商社マン夫妻は、いかにもアフリカ駐在のエリートらしく、小汚ないアーミージャケットを粋に着こなしたいやに馴れ馴れしい、英語もフランス語もぺらぺらの素敵な青年旅行者(これは、僕の事だよ)にはとても冷たかった。

普通なら一緒のタクシーでナイロビの町中くらいまで連れて行って、安いホテルぐらい世話しようとするのが、日本人というものとちゃいまっか!
いくら、僕が奥さんに色目を使っていたにしてもだよ…。

さて、商社マンに見捨てられ、どこに泊まったらいいのか全くわからなかったので、ナイロビ空港のホテルインフォメーションで一番安いホテルを選び、リムジンバスで町へ向かった。

この最初のホテルが『HOTEL SOLACE』で、1泊250シリング。
この頃は、1ケニアシリング=8円なので2000円。
しかし、ホットシャワーとトイレ付きで、朝食がイングリッシュブレックファーストに様々な種類の果物が食べ放題。

ふーっ、満腹、満腹!

部屋も広いし、町の中心にあるので、非常に便利ないいホテルだった。
日本から1〜2週間ぐらいの予定でナイロビに行くのならこのホテルを推薦しておこう。

でも、1泊2000円も払うようではやはり本格的な旅行者とは言えないだろうね。
いろいろあって次に移ったのが『HILL CREST HOTEL』。

ここも町の中心で交差点の角にあり、部屋に水シャワーとトイレがある。
ソラスホテルに比べれば、部屋はかなり狭い。

しかし、さすがに元イギリス領らしくイングリッシュブレックファーストは付いている。
ただ朝の果物はバナナ一本だけだった。
1泊が160シリング。(1280円)

ぐんと安くなったが、ここもアフリカ人ビジネスマンの泊まるホテルだ。
やはり、旅行者としては自慢出来るところではない。

実はナイロビに来た普通の旅行者(観光客ではなく)が目指すのは、まず『イクバルホテル』というのが常識なのだ。
ただこのホテルは一階がレストランになっていて、そこには頭の毛をつるつるに剃ったいかにもおどろおどろしい男とか、髭だらけの白人とつるんでジェスチャーで会話している女とか、あまり感心しない日本人がいるのを、ソラスホテルに泊まったその日に足を運んで確認してあるのだ。

僕はこんな連中と一緒になりたくはない。

でも、何時かはイクバルホテルに泊まらなければならないと、覚悟はしていた。
ただ問題はそれが何時になるかだ。

もちろんこの時期、ただボーッとしていたのではない。
毎日熱心にナイロビの大使館巡りをして、ビザを集めていたのだ。 

注)このエッセイは1988年のお話です。現在はナイロビの状況は大きく(悪く)変わりました。
現在は空港からナイロビへのリムジンバスはなくなり、イクバルホテルは改装されて、一階にあった名物レストランもなくなりました。
しかし、イクバルホテルのマネージャーの「アリ・サム」氏は、1996年に、8年ぶりに再訪した世界旅行者を覚えていて、温かく迎えてくれましたよ。 

2:本格的旅行者がやってきた! 

調子に乗って書き出したが、このエッセイは「国境を越えるシリーズ:カイロ〜ナイロビ、商社マンはワイロで重量超過をごまかす」でも「早稲田の探検部は情報なしに旅をする」でも「ナイロビでビザのコレクション」という題でもない(これはこれできちんと書くつもりだ)。

コンドーム男の話なのだから、適当にはしょって僕が「イクバルホテル」に住み着いた時から話を始めよう。

イクバルホテルの2階のツィンルームを1人で借りきって、そのころ1泊が90シリング。
つまり、720円だ。

これは本当に正直な話をすると、自慢出来る事ではない。
実は本物の本格的日本人アフリカ旅行者は、リバーロードにある伝説の日本人宿「リバーハウス」に泊まる事に決まっていたからだ。

リバーハウスだと、この時期1泊20シリングで泊まれた。
しかし、リバーハウスは普通のアパートを日本人が4室ぐらい借りて、共同生活しているところで、本当のホテルという訳ではない。

リバーハウスでは部屋の2段ベッドや床でざこ寝をしたりするので、プライバシーを最も大切と考える僕としては(まだ、資金的にも余裕があったので)ここに転がり込む事はなかった。

しかし、世界中の全ての日本人宿の常識として、日本語の本のライブラリーがある。
特にこのリバーハウスでは日本風料理を自炊していた。

食事の用意を手伝ったり、顔なじみになると一食20シリングで食べられたし、なまぬるいタスカービールも1本10シリングで飲めたので、しょっちゅう顔を出していた。
こういう世界各地の日本人宿には、旅行を始めたばかりのくせに「旅行通」を気取る中途半端な日本人がよくやって来る。

リバーハウスにも「ケニアにやって来たのにインドの話ばかりする」(これは世界中のどこにでもいるインドかぶれだ)とか「エジプト経由で来たことを示そうと、エジプト音楽のテープを流す」とかいう中途半端な連中がいた。
それもまた、別のエッセイ「日本人宿の惨めな実態」で書くことにする。

さて、僕の一日はイクバルホテルの2階の部屋で8時頃に起き出して、アラブ風トイレ(これはつまり日本風トイレの金隠しのないようなものだ。でも水洗なんだよ)でウンコをして、1階のレストランに降りて行く事から始まる。

毎朝同じ時間に同じテーブルにつくと、小柄で元気のいい黒人のボーイがやって来て僕に「イツモノ?」と聞く。
僕は「いつもの!」と答える。

しばらくするとボーイ君はチャーイ(インド風のミルクティー)を2杯とサモサ(野菜餃子の大きい奴)を2個持ってくる。
これが僕の朝食だ。

このときはもうこれから行くつもりだった国のビザは一応取ってしまっていた。
そこでナイロビのフランス語学校「アリアンフランセーズ」に通って、フランス語に磨きをかけていた。

実は、いつ旅を始めても良かったのだが、リバーハウスで寝っころがって、いろんなアフリカ旅行の本を読んでいるうちに、面倒くさくなってきていた。

つまり、旅行の本というものは出来るだけ物事を大げさに、自分の旅行を素晴らしくでっち上げようという立派な目的を持っているものなので(この頃はまだそれがはっきりとは解っていなかった)読めば読むほどうんざりして、旅に出る気持ちがなくなってきたのだ。

そこで、一人で行くのは危ないからと、フランス語学校に通ったりしながら、誰か一緒に旅行に出る人間が現れるのを待っていたのだ。

もう6月の半ばだ。
ケニアでは雨季が終わり、これから観光シーズンが始まろうとしている。

7月になれば日本から短期滞在のサファリ客がどどっと押しかけてくるだろう。
しかし、もっと気のきいた長期旅行者もそろそろやって来るはずだ。

その日も僕はチャーイを飲みながら、「ジャパニーズ・コンスピラシー」という日本の悪口を書いた英語の本をゆっくりと読んでいた。

海外に出る大きな理由の一つは英語の本をたくさん読めるということだ。
日本にいればいくら英語の本があってもつい「アサヒ芸能」や「週刊大衆」に手が伸びてしまうのでよほど根性がなければ読めないからね。

イクバルホテルのレストランで英語の本を読みながら午前中をのんびり過ごしていれば、誰か面白そうな奴が現れるものだ。
それにひょっとして、今日はパキスタン航空の着く日かも知れない。

この頃日本からナイロビまでの一番安い飛行機はパキスタン航空で、そのカラチ〜ナイロビは1週間に2便あった。
その飛行機便が着く朝は、イクバルホテルに日本人が必ず何人か出現する事になっていたのだ。

その日も何人か現れたが、僕を見つけて近寄ってきたのは1人だけだった。

「こんにちはー!あんた日本人じゃろ」というのが第一声だ。 

3:斉藤氏との出会い 

第一声を聞いて、これは冗談の通じるまともな旅行者だと、すぐにわかった。
そこで、「僕がアフリカ人だと言ったらどうします?」と、粋な返事を返して、ニヤリと笑う。

「あんたは旅慣れた風じゃから聞くんじゃが、ここのナイトクラブはどこにあるね。いくらするんじゃ」というのが第2声だった。
これは変わっている。

僕も以前の旅行を除くと、このときは日本を出てやっと一年ほどたっただけだけだったが、こんな人に会ったのは初めてだ。
聞くと、彼は今までバンコクで現地の女と同棲していたという。
それに飽きてナイロビへやって来た。

「コンドームを6ダースぐらい持ってきたんよ。アフリカのがどういうのか解らんからな」
ブットビー!(古いね)

このおっさんは(40を過ぎていたのでおっさんと呼んでもいいだろう。このときは僕もまだ30代後半の「青年」だったのだから)どうやら、SEXだけが目的でアフリカまでやって来たらしい。

ナイロビ滞在の旅行者や青年海外協力隊員が現地の女と関係を持っているのは周知の事実で、それは驚く事ではないが、一応ナイロビ滞在には他の建前を持っている。
この斎藤氏(これが彼の名前だ)は、それだけが目的だというのだから、正直びっくりしてしまった。

だって、エイズの事は考えないのかしら。
ナイロビの売春婦はほとんどがエイズだとも聞いているのに…。

「エイズー?そんな話は嘘じゃ!ウガンダじゃ人口の半分がエイズをもっとるという話じゃが、そげな事はなか。そんならウガンダはとーっくに無くなっとる」

なるほど、説得力のある話だ。
僕はもともとこの旅行に出た原因が、嫁さんに逃げられたせいでもあり、外国で女を買うという事はしない。

特にナイロビのようなところでは、イクバルホテルの向いの「グリーンバー」で、日本人専用の売春婦から日本語で解りやすく「ジギジギしよう!ジギジギ、ジギジギ!」と、身体を押しつけられて、耳元で口説かれても、ていねいにお断りしている。

日本人には日本の女が一番いいというのが僕の哲学だし、この歳になればただ出来るからといってレベルの低い女とSEXの為だけに付き合いたくもない。
でも、まあ違う意見の人がいてもそれはそれで面白い。

しかし、強烈なショックを受けたので、目がぱっちりと覚めてしまった。
午後になってフランス語学校で授業を受けた後、早速リバーハウスに顔を出して、この「コンドーム男」の噂をまき散らした。
ナイロビは狭いところだから、変わった日本人が来ればすぐに噂が広がる。

次の朝も、僕はイクバルホテルのレストランで「いつもの」を食っていた。
そこへ昨日のコンドーム男、斎藤氏が現れた。

「どうです。ディスコはどうでしたか?」と、僕が訊ねる。
この時期ナイロビには「フロリダ」「ニューフロリダ」という2つの有名なディスコがあって、そこで女の子をピックアップするのが常識だったのだ。

「マラヤさん(これがナイロビでの売春婦の呼び名だ)と同棲を始めたよ」との答。
ブットビー!(古いね)

「もう、同棲ですか!いくらぐらいかかるもんですか」と、興味津々に聞く。

こういう人から正直な話を聞かないと、他のみんなは隠して言ってくれないのだ。
「金はいらんよ。飯食わせて、酒のませてやればそれでいいんよ」

「それは売春婦としては変わってますね」と僕。
「いや、タイでもそうじゃけど、こういうところは恋人と売春婦の区別は付かんのよ」

これは勉強になる。
つまり、ディスコで出会った女の子に、いいレストランで食事を奢って、バーで酒を飲ませてやれば、大体SEXが出来ると言う事だ。

アレレレッ、アジアでもこれに良く似た話を聞いた事があるぞ‥‥。
え〜っと、たしか…、そう、日本という国だ。

ただ、日本では売春婦というのではなくて、これは普通の女の子の事だが。
そうか、世界的な観点から見れば、日本の女は売春婦なのか。

だから「イエローキャブ」と呼ばれて、誰とでも簡単に寝るという事なのだ。
海外だけで寝るという事ではなくて、日本でも飯を食わせて飲ませてくれる人とは寝る訳だから、もともと売春婦のようなものなのだ。

英語もまともにしゃべれないという噂の家田ショウコとかいう女の書いた本にはこの点への言及がないのが惜しいが、それは仕方がない。
誰でも自分の事は正直に書きずらいものだ。

イヤー、なかなか勉強になる。

「ところで、コンドームはどうですか?同棲してたら、6ダースぐらいあっても足りないでしょう?」と聞いてみる。

「コンドーム使うのは止めたんよー」が、答。
「でも、エイズが!」とビックリする。

「それがじゃ。昨日SEXしてたら、コンドームが破れたんじゃ」
「エー!それは危ないじゃないですか」

「待て待て、西本君。君も知っとるじゃろうが、エイズは血の出るような激しいSEXをしなければ移らない」
「はいはい」と同意する。

これは以前は常識だった事だ(今ではこれは常識ではないらしい。ということは昔の話は間違っていたという事だろう。ということは、逆に今盛んにキャンペーンしている話だって間違いの可能性があるという事じゃないのかな)。

「ところがだ、激しいSEXをすればコンドームは破れる。コンドームが破れないのはおとなしいSEXをしている時で、もともとおとなしいSEXをしている時はエイズが移らないという事だ。解るかな」と理路整然という。

僕も、大学であまりに成績が優秀なので教授が離したがらず、結局学部で5年も過ごして、卒業も危なくて、お情けで卒業証書をもらったくらい優秀なので(?!)、この理屈は良く解る。

コンドームの破れないおとなしいSEXの時はコンドームの必要がなく、エイズが移るような激しいSEXの時はコンドームが破れてしまうのだから「コンドームを付けても意味がない」という、非常に危ない理論だ。

なるほど、良く解った。
やはり旅行に出ると勉強になる。

そのまま斎藤氏はイクバルホテルにはしばらく姿を見せなかった。
リバーハウスで広まった噂では、黒人の女を連れてにこにこしながら町を歩いている姿が見られたという事だ。

僕がまた斎藤氏と会ったのは、約一週間後、いつものようにイクバルホテルのレストランで「いつもの」を食べている時だった。
斎藤氏が入ってきたが、がっくりと肩を落として、いつもの元気がない。

「斎藤さん、どうしました!エイズにでもかかりましたか?」と明るく声をかけた。
マラヤさんと同棲を初めて一週間でエイズにかかったと判明するはずがないので、これは冗談だと誰でもわかる。

斎藤氏は深刻な顔をして「女に金を取られたんじゃ…」と言う。
え〜っ、何だって!

これはまたまた面白い話だ。
身を乗り出して、話を聞く。

これでまたリバーハウスへの土産話が出来たぞ。
(人が失敗した話ほど、うれしくも楽しいことはないねっ) 

4:ビクトリアフォールズ旅行計画 

斎藤氏は「シャワーを浴びとる時に、腹巻きから300ドルばかり金を抜かれたらしいんじゃ」と話し始めた。
何でも一週間同棲しているのに、女に現金は全然払わなかったらしい。

「アパート代も、飯代も、酒代も、全部出してやったのになー」
「それは仕方ありませんよ。日本の女でも、アクセサリーや着物ぐらいは買ってやるんですからね」と、たしなめる。

こういう事があって斎藤氏もしばらく女と縁が切れたので、僕や早大探検部の野村君など、他の友人たちと共にナイロビを飲み歩いていた。
斎藤氏はなかなか旅行のベテランでイギリスの英語学校にも留学した事があると言う。

持っているガイドブックは英文の「アフリカ・オンナシューストリング」なのだからこれは本物だ。
ぽっと出の、「歩き方」を抱きかかえて旅行するような素人旅行者とは違う。

ということは、旅慣れていて、信頼出来るということだ。
彼と2人でアフリカを旅行するのなら大丈夫だ、と確信した。

よく話をすると、斎藤氏は女を買いに来た以外に、西アフリカへ旅する計画も持っていた。
そこを何とか説得して、とにかく一緒に世界3大滝のひとつ、ジンバブエとザンビアの国境にある「ビクトリアフォールズ」へ行くように話を決める。

しかし、やっと説き伏せて、切符を予約し、エージェントへ金の支払をしに行く途中でバーに入ってしまったのが間違いだった。

そのバーで、以前街角で出会って冗談を言ってからかった、顔見知りのマラヤさんたちに出会ったのだ。

斎藤氏は「あの子が好きなんじゃ。西本君もわかっとるじゃろう」という。
僕も酒が入っていて調子に乗っていたので、斎藤氏が以前から好きだったという黒人売春婦の女の子を僕が代わりに口説いてあげた(僕自身は女を口説かないのが方針だが、人の為ならいくらでも歯の浮くような言葉が出てくる)。

「彼(斎藤氏)は、君と出会って以来、ぼくらに君の事ばかり話していたんだ!」とか「ここで2人がめぐり合ったのは、神様の導きだ」とか、ビールを飲んで考えつくかぎりの口説き文句を言った。

そこで彼女も(ちょうど白人にふられたというので)乗り気になったらしく、斎藤氏と2人でバーを出て行ってしまった。
そして、それきり、斎藤氏は行方不明になってしまった。 

リバーハウスでは、また「にこにこして通りを女と歩いていた」という噂がしばらくあったが、その噂もいつしか途切れた。
僕の旅行は「無理をしない」というのが方針なので、この時は一人で南へ下るつもりはなく、結局ザンビア行きは中止になってしまった。

しばらくして、ナイロビ生活にも飽きた僕は、ケニアの東海岸へ向かった。
モンバサ、マリンディ、ラムの町のビーチをダイビングをしたり、ウインドサーフィンをしたりして過ごし、またナイロビへ帰ってきたのは約1か月後だった。

戻ってきてまたイクバルホテルにチェックインした。
そして、毎朝階下のレストランで「いつもの」を食べて過ごしていた。 

5:人は愛を求めて、旅を続ける 

8月になった。
エジプトへ飛ぶという前夜に荷物をまとめていると、ドアをノックする人がいた。

開けると、斎藤氏だ。
いやに真面目な顔をして、「西本君、話があるんじゃ」と言う。

ドアの外に出ると、例の黒人の女の子がいた。
タクシーを飛ばして、グロスバナーホテルの日本レストラン「将軍」で食事をする。

「結婚する事にした」との話。
ブットビー!(古いね)

もう、彼女の実家にも行ってその町の町長とも話をし、日本大使館にも相談にいって手続きを開始したそうだ。

「日本に連れて帰るんですか?」と聞く。
「日本じゃあ、彼女が住めんじゃろ。僕がここに住むことにする。日本から金を送らせて牛でも飼って暮らすよ」

僕は心から、二人を祝福する。
うまく行かないと思うのが普通だろうが、普通じゃないのが本物の長期旅行者だ。

しかも、ただ一人心から愛した人と別れて旅に出た僕に言えるのは、ただ一つのアドバイス。

「もし、好きになったら、逃がしてはいけない。そうでなければ、一生後悔するだろう」 

翌朝は早く起きた。
ドイツ人旅行者のケビン君と一緒にタクシーをシェアして、ナイロビ空港に向かったのは朝の5時前だった。

エジプト航空でカイロに着き、バスでタハリール広場に着き、なじみのクレオパトラホテルの地下「九龍飯店」でずらりとキムチを並べて、なじみの韓国人のウエイトレスの姉ちゃんと話をする。

ケニアにいた日々が全く夢のように、ずっとカイロにいたように感じられる。
でも、それは確かに違う。
マリンディで焼いた僕の褐色の肌が、そしてケニヤで出会ったいろんな人の記憶が確かにそれを教えてくれる。

どんな経験も夢といえば夢なのだ。
人生もまた、あっという間に過ぎてしまう夢なのだろう。

その中で、人が確かにつかむものがあるとすれば、それはきっと「愛」だけなのだ。
「愛」という幻想だけなのだ。

その後、僕はエジプトから中近東、東欧とずっと北へ旅を続けていった。
斎藤氏が鉛筆で僕のノートに走り書きしたケニヤの住所に、ノルウェーのフィヨルドの小さな町から絵ハガキを出した。

書いた言葉は、とても短かった。
「僕は、まだ旅を続けています」