《『旅行覚者』への道》 

世の中にはニセモノがとても多い。

そして、このことが本当にわかるのは本物だけだ。

例えれば、それは日本刀の鑑定師が本物の刀を見ることを修業にしているようなものだ。
つまり、本物の刀を沢山見ていると、贋物や二流の刀をちらっと見たとたんに『これは駄目だ』と直感してしまうみたいなこと。
いくら本を読んでも話を聞いても、もっともらしい理屈をこねても、本物の名刀を数多く自分の目で見なければ鑑定などは出来ない。

これを旅行について言うなら、本物の刀を見る修業とは『世界中を本当に自分の力で旅行しながら、その旅の中で実際に長期旅行している人と直接に会って話す』ことだと誰でもわかるだろう。

この本質をわきまえずに、本を読んで勉強したり、人の話を聞いて受け売りをしたりしても、それは駄目だ。
旅行の本を読んだり、また聞きの噂話で旅行の話をしているということは、本物の前ではバレバレなのだから。

これをわかりやすく説明すると、例えば『ホットドッグプレス』や『アンアン』の童貞や処女の編集者がでっちあげたSEX記事を読みあさることから始め、コンビニの片隅にある青少年向けのエロ雑誌を読んで、さらにSM雑誌に進み、ちょっとレディスコミックを読み、ブルセラショップに出入りし、友達のいいかげんな猥談に興奮し、山のようにポルノビデオを見て、ダッチワイフで体位を練習して、堂々とSEX評論をするようなものだからだ。

これは誰でもちょっとおかしいとわかるだろう。

SEXについて語るためにはいくらデータを持っていてもだめだ。
やはり、いろんな経験を自分で積み重ねて行かなければならないのだ。

同じように、旅行について、ある程度の話をしようという場合、その前提として、個人的な膨大な旅行経験が必要になるのは、いまさら語るまでもない。
ところが日本では、書いた本人がたいした旅行経験もないままでっちあげた旅行本を読んだり、もともと何も知らない旅行代理店勤務の「しょせん安サラリーマン」の話を聞いて、なにかがわかったように勘違いしている人が、間違いだらけの旅行の話を広めている。

つまり、間違った日本の旅行常識を正すためには、どうしても本物の旅行経験のある、知的な人が必要だ。

でも、自分の力で世界中を旅行するためには、金も時間も語学力も知性も、更に言うなら決意も必要なのだから、これだけのものを持つ立派な人間が普通なら旅行などと言う無駄なことをするはずがない。

つまり、本物の『世界旅行者』になるためにはこれに加えて『神の意思』が働かなればならないのだ。
そして、これはめったにあることではない。

なぜなら、神から選ばれて、本当に愛されていなければ、神からの直接の働きかけによる、真の意味での世界旅行などというチャンスはめぐって来ないからだ。
これだけ神に愛されている人が、インドや中米のどの街角にもざらに、3〜4人ずつ固まって、うようよ歩いているわけはない。

だから、ちょっと変わったところを短期間旅行しただけで、町内会やありふれた友人関係の中で『旅行通のナントカちゃん』などと呼ばれている人間に会ってちょっと話をすれば、ほとんどが贋物だとわかる。
こういう連中はもともと人間性が駄目な「はったり人間」だからだ。
旅行以前のところで駄目な人間で、とうてい神の意思の働くようなレベルではないことが明白だからだ。

神がその存在さえ忘れているようなつまらない人間に限って、旅行について嘘ばかりしゃべりまくるのは、まあそれがバレなければ大きな顔が出来るという単純な理由だ。
なかには調子に乗って、嘘だらけの本を出版する人間もいる。
でも、大きな顔が出来るのも、本物の旅行者に会うまでの話だけれどね(笑) 。

ところで今までの議論ではっきりしているように、本物の旅行者は神から愛されるような立派な人間性を持っているのだから、旅行の話だけしか自慢するものがないなどという低いレベルの人間であるはずがない。
つまり『旅行した』ことだけしか自慢出来ない人間は本物ではないということだ。

そうして、その本物は『世界旅行者』という称号を神から与えられる(この業務を神から委託されているのが『世界旅行者協会』だ)。

しかし何物でもそうだけれど、このレベルを乗り越えてしまうと、自分が旅行をしていることすら自覚しないものとなる。
つまり、旅行に出ているという特別な意識もなく旅行をすることが出来る。

旅行者がこの境地に達すると、これを『世界旅行教』では『旅行覚者』と呼び、仏教ではブッダと呼ぶ。
僕はこのレベルに非常に近いが、まだ贋物や嘘つきなどに怒りを感じるだけに『旅行覚者』には達していない。

しかし、旅行中にはとんでもない旅行者に出会って『ひょっとして、この人が噂に聞く旅行覚者ではないか!』と思ったことはある。

旅行の本質を分かりやすく説明するためにも、この経験を語りたいと思う。