チュニスの天才旅行者8 《僕が国際電話をかける理由》
彼は大学の2年生なので就職のために帰らなければならないというのではない。
しかし、履修届けの提出のためにどうしても4月7日には大阪にいなければならないのだとか。

彼の切符はシンガポール航空で、帰りはローマ発になっているが、この便は週2便。
シンガポール航空だから、シンガポールで乗り換えて大阪へ行くことになる。
これはちょっと面倒だ。
この時期にすんなりと予約が入るとは考えられない。
もともと、卒業旅行の帰国便の予約はぎりぎりのところに集中している。
だから3月終わり頃は予約で満席というのが普通だ。

シンガポール航空の場合、卒業旅行でオーストラリアやアジアを回った旅行者も、シンガポール経由で日本へ帰ることになる。
だから、シンガポールから日本への便についてはウェイティングリストには名前がいっぱいだろう。
更にシンガポールから大阪への便数は東京行きに比べて少なく、また大胆な学生旅行者は関西の方が多い。
つまり、予約がなくても乗り込もうとする根性のある(ど厚かましい)関西人旅行者がキャンセル待ちをしていることだろう。

これが常識だが、しかし常識通りにいかないのも旅行というものなのだ。
予約にトライしてみるのも面白いな。
それにチュニスからローマへ電話をかけて、シンガポール航空の予約を取るのも、いい話のネタになるだろう。
他人の金で、新しい個人的な経験を積み重ねることになるのだから、これはおいしい。

旅行の話というのはいろいろあるのだが、『こういう場合は必ずこうなる』という常識は本来通用しないものだ。
それなのに旅行の本を読んだり、旅行の話を又聞きしたり、旅行サークルに参加たりして『旅行通』をきどる人がいるのは、いかにも旅行の初心者らしくて、かわいい。

旅行をしていて、「同じことをすれば同じことがおこるのなら、旅行に出る意味がない」という基本がわかってないのだ。
ある国境を陸路で越えられるかどうかという重大な問題についても、ある人がすんなりと通過し、別の人が国境で追い返されるという話は良くある。
その理由をいくら追求してもしかたないこともある。

それがわからない初心者は、自分で国境を越えようともせずに、国境で追い返された旅行者の経験を聞きかじって、ガイドブックに『国境が越えられない』と書いて、一人で大騒ぎをしてまわりに迷惑をかけたりする。

そのいい例が、『地球の歩き方』だ。
この本には長い間『日本人はヨルダンに陸路入国ができない』と、堂々と書いてあった。
このために、カイロやイスタンブールの日本人宿では、中近東を経由する陸路ルートを変更する旅行者が続出したものだ。
もちろん旅行の本質がわかっている僕は、エジプトからシナイ半島経由でアカバ湾を渡り、ヨルダンへとすんなり入国したけれどね。

旅行の経験は法則にできるものではないし、一般化できるものでもない。
例えば『親切な宿』といっても、それは日本人の女の子にだけ親切なので、普通の薄汚い男の旅行者にはひどい扱いをするのは常識だ。
また、宿屋のおやじが日本人の女の子に親切なのは、かたっぱしから声をかけていれば結構やらせてくれる女がいるからだというのは、実際に旅行をしたものにとっては決して変な話ではない。

だから、旅行の話は自分自身で体験した、個別的な経験談以外は意味がない。
つまり、僕のような本物の『世界旅行者』は、旅行の話を読んだり人に聞いたりせずに、いろんな経験を自分で積み重ねていくことを目標にする。

例えば、モロッコのマラケシュからワルザザードへと大アトラス山脈を越えたのは、実はマラケシュで一枚の絵ハガキを見たからだった。
その土地特有の日干しレンガでできたと思われる集合住宅の写真がとても魅力的だった。
その絵ハガキを日本へ送りたかったが、その景色を自分で見ていないのにまるで自分が目にしたような事は書けない。
だから、絵ハガキを送るために絵ハガキに写っている景色を見に行ったのだ。

つまり旅行においては個人的な個別的な経験だけが正しくて、それ以外は何をいっても本物ではないのだ。

『チュニスからイタリアへ国際電話をかけるには』という話をするためには、実際に自分でその電話をかけていなければならない。
もちろん時がたてば、その『電話のかけ方』も変化するものだが、ある時期に実際に電話をかけた時にはこうだった、という話は決して意味を失うことはないのだ。

よく、一般的にはこうです、規則ではこうなっている、といったタイプの面白くもない話をだらだらと続ける人がいるが、自分の個別的な経験を語っていないなら、決して信じてはいけない。
今では本を山ほど読んで自分で経験していないことをだらだらとしゃべって旅行通をきどる人間が、うんざりするほどいるのだからね。

というわけで、東堂君のために国際電話をかけるのは、僕にとっても意味のあることだった。
自分では決してこういうことはしないのだから、人の助けをしながら、人の金を使って、おもしろい経験ができることにもなるのだしね。

旅行会社の女の子の話では、中央郵便局で国際電話がかけられるそうだ。

念の為に、東堂君に『君、自分でかけられる?』と聞く。
『英語は、苦手でおまんのやわ〜』と、予期した返事がもどる。

よしよし、英国でケンブリッジのCPEの試験を受けてきたばっかりの僕の英国BBC放送タイプの知的な英語で、君を助けてあげるからね。

僕は東堂君を引き連れて、チュニスの通りをずんずんと中央郵便局の方向へ進んで行った。