『アンティグア旅行者風景』
(antigua,guatemala/sprinjg,1989)

旅の噂はどのようにして作られ、どのように広まるか…

 

最近は、中米旅行も非常に身近になったが、つい最近まではメキシコやグアテマラへ行くということ自体が「大旅行」と言われた時代もあった。

実は、昔から中米旅行は簡単で、たいしてお金もかからない。
世界旅行者協会の女子高生、Rちゃんも、一人で旅した程度のところだ。
しかし、なぜかこんな簡単な旅行がおおげさな話になったりした。
それは、ただ日本のガイドブックに詳しく書いてなかったというだけなのだ。

これを大げさな話にしているのは中米しか旅行したことがないのに、中米旅行で一生大きな顔をしてくらして行こうと考えている世間知らずの素人旅行者連中だ。

「世界旅行者協会」から東回りで世界一周旅行に出かけたウブなT君は、「あそこにいる旅行者の99パーセントは嘘つきでした…」との言葉とともにエルサルバドルから絶望して帰ってきた。
旅のいいかげんな噂がでっち上げられる瞬間を、中米、アンティグアで目撃したので、その状況を報告しておきます。

 

《どのように旅の噂は作られるか−アンティグアにて》

僕の世界一周のごく一部、LAを起点にした中南米一周旅行の初めごろの話。
メキシコからベリーズ経由でグアテマラへ入り、有名なマヤ文明のティカル遺跡を見て、バスでグアテマラシティへたどり着いた後、古都アンティグアに居を定めて、身体を休めながら、スペイン語の個人レッスンをうけていた。

アンティグア生活にも慣れ、スペイン語のレッスンもそろそろ接続法に入りかけになった。
もちろん、接続法などというめんどうな文法規則は、旅行に使うような簡単なスペイン語には用のないところ。
僕が発見した「旅行言語の法則」で行けば、たとえぺらぺらしゃべれても、出来るだけ下手な言葉を使った方が旅行には有利なわけだから、接続法を使えたって使わないのが常識。
ただ、文法的にはこれが終われば一応全部流した事になる。
そこまで切りよく勉強をして、そろそろ本格的にエルサルバドルへ下らなければならない。

これまで、スペイン語のレッスンの合間を見て、コパン遺跡(ホンジュラス)やキリグア遺跡(グアテマラ)を訪れていた。
あとはアンティグアから日帰り出来る景勝地、アティトラン湖畔のパナハッチェルへ行けば、もうここにいる必要はなくなる。
ホンジュラスへの国境を一緒に越えて、コパン遺跡をいっしょに見た川田夫妻は、そのあとホンジュラスからエルサルバドルへ入り、昨日サンサルバドルから帰ってきていた。

その話では、奥さんがバスで酔っ払いに絡まれた以外は、エルサルバドルが内戦中とはいっても、国境も簡単に越えられたし、特に変わった事はなかったという。
この情報も「そろそろ南へ」との神からのヒントかも知れない。

スペイン語のレッスンの後で川田夫妻と、喫茶店「ドニャルイサ」で会って話をし、一人で日本レストラン「ZEN」へ行った。
アンティグアを出れば、しばらくは日本語の本を読めなくなると思うと、異常に読書欲が強くなって、毎日3〜4冊は読んでいる。

このところ食事はしなくても、ZENに顔を出して、本を借り出して、眠る暇も惜しんで、激しく、前から後ろから、目が疲れて太陽が黄色く見えるほどに本を読んでいる。

ちょうど海外単身赴任直前の新婚夫婦の性生活のようなものだといえば分かりやすいだろう。

 

《ZENにてー中米旅行者は赤川次郎が好き》

ZENに入ると客が誰もいない。
午後の遅い時間なので、昼食には遅過ぎ、夕食には早過ぎる時間だ。

僕は夜はホテルの自分の部屋で1人ビールを飲みながら、本を読んだり学校の宿題をするので、夜にZENへ来る事はほとんどない。
僕はがやがやと五月蠅いところよりは静かな方が好きなのだ。

本物の旅行者というものは、自分一人でいることを楽しめる人間だ。
そうでなければどこへも行けない。

寂しさをごまかすために友達と旅行に出ても、普通ならけんか別れをするものだ。
2人で1週間同じ部屋に寝泊まりしたら、必ずけんかをする。

旅に出てまでけんか別れをしないようにと、気をつかい、努力をするくらいなら、旅行に出ずに日本の人間関係のなかで幻想の友情を育み続けていた方がまだましだろう。
一人で旅に出るのは、人間は一人で生きていくものだということを確認するだけかもしれないのだから。

ZENの奥まったところに日本人のたむろするスペースがあって、それを囲んで日本語の本を納めた本棚がある。
この本棚を見ると中米を旅行する連中のレベルがよく分かる。

インドやアフリカの安宿では、変に難しい哲学書などが置いてあったりするものだ。
もちろん誰も読みはしないのだから、気にすることはないが。
これはただ「インドは哲学的だ」というマスコミの記事を信じた馬鹿が、旅行さえすれば哲学的になるかもしれないと持ってきたものだ。
当然、世界中のどこを「旅」したところで、「放浪」したところで、「冒険」したところで、馬鹿は馬鹿で死ぬまで直りはしない

馬鹿は死ぬときも馬鹿のままなのだ。

でも、無理だったにしても一度はまじめに人生を考えようと覚悟を決めた長期旅行者の夢のあとがしのばれて、ほほえましい。

ところで、中米も入口のここアンティグアのZENの本棚には、赤川次郎が多い。
哲学書の「てつ」もないのだ。
鉄道模型の本もない(当たり前か…)。
これが、ここに集まる日本人のレベルをはっきりと表している。

赤川次郎だと1時間もあれば1冊読めるので、わざわざバックパックに入れて、旅行に持って出る意味がない。
すぐ読んでしまうんだからね。
しかし、ZENで食事をしながら、何も考えずに読むにはちょうどいい長さだ。
その上、中身はどれも似たり寄ったりで、全く記憶に残らないので、逆に言えば何回読んでも新しい。

そこで、三毛猫ホームズシリーズの一冊を適当に手にして、庭を囲むように並んでいるテーブルに一人で腰かけ、「el bistec con arroz blanco(ビフテキとご飯)」6Q(300円)をオーダーし、ビールを飲みながら遅い昼食をとることにした。

ZENに来た始めのころはちょっと変わった連中がいると思ったものだが、そいつらはもうどこかへ旅だってしまった。
または底が割れてしまった。
で、これは結局同じ事なのだ。

 

《中米旅行者概論》

どんな人間でも少しの間なら「なかなか面白いやつだ」と思うことが出来る。
どんなひどい女でも一回セックスした程度なら、なかなかいい女だと思うことも出来るだろう。

でも、同じ女と一週間も鼻を突きあわせて暮らしていると、底が割れていやになってしまう。

旅行で出会う「面白い人」も「個性的な人」も同じことなのだ。
そんな興味深い人間と日本で出会わなかったように、実は旅行者にもいるはずはないのだ。

もちろん誰でも長期海外旅行に出るわけではないので、アンティグアにいる連中が新橋駅を歩いているありふれた安サラリーマンと全く同じ、というわけではない。

しかし、新橋の「養老の滝」で安酒を飲んでいるサラリーマンが、一人一人は自分で変わっていると思っていても全体的に見ればワンパターンなように、アンティグアにやってくる旅行者もまたあるパターンに属している。

そのパターンとは「メキシコから南下してグアテマラへやって来たというだけで自己満足している根性なし」だ。
つまり、自分の中で「中米へ来た」と意識して、「中米旅行はすごい」「だから自分はいっぱしの旅行者だ」と短絡させるレベルの低さだ。

僕がアンティグアにいるのは、もちろんこれから陸路で中米を下り、更には南米を一周するためだ。
グアテマラの南には、エルサルバドルというゲリラが名物の内戦中の国があり、ホンジュラスには有名なマヤのコパン遺跡がある。
更に下れば、日本の教職員もツアーで見学に来たという、社会主義革命で有名なニカラグア。
その南には中米のスイスと言われるコスタリカがあるのだ。
旅行者ならばよだれの出そうな面白い旅行の出来るところだ。
だから、グアテマラまで来て、まだ時間も金もあるのにアンティグアで日本人同士固まって、南へ下ろうとしないのでは、これはまともな旅行者とは言えないだろうね。

わかりやすく言うと、頭がよくて(つまり、スケベで)きれいな女の子を東麻布の有名なSMホテル「アルファイン」に連れ込んだのに、縛りもせず、ロウソクもたらさずに正常位で一回SEXしただけで出てくるような話だ。
こんな根性のない事をしたら女にばかにされて、2度と付き合ってもらえない。

これと同じことで、中米を下っているのにグアテマラから南下しないような根性なしでは、旅行の女神にも見放されてしまう。
常識のあるまともな人間なら、誰だってそう思うだろう。

だから、僕がアンティグアで付き合っているのはほんの数人だ。
オーストラリアとカナダでワーキングホリディして、奥さんまで呼び寄せて、一緒にカナダからグアテマラへ下ってきて、現在はスペイン語を勉強している川田夫妻。
コスタリカのビーチでアメリカ人の女を引っかけて連れてきて、アンティグアで同棲している大学の後輩と、そのアメリカ女。
あと面白そうな女もいたが、いつの間にか南米へ旅立って行った。

この女は会ったばかりの僕に「おばあさんが焼け死んだんだわ」と話しかけてきた。
理由を聞くと、ZENへ着いた手紙で「家が焼けた」と言う日付けと、「おばあさんが死んだ」という日付けが一緒だったというのだ。
悲しんだ振りもしないのは、これは確かに普通の日本人ではない。

僕がいつもの癖で、どうしても冗談を言いたくなって、思い切って「よく焼けてれば火葬の手間が省けるのにね」と言っても「本当にね!」と明るく笑って返事をした。

この女の子とは、6ヶ月ほどたって、僕が南米を一周してまたアンティグアへ戻った時に、まったく偶然に再会した。
お互いに長期南米旅行から帰って来て、久しぶりに会ったのに、「ちょっと南米へ行ってきた」というあっさりした感じなので、とても爽やかだった。
これなら本物の旅行者といえるだろう。

しかし、もちろん、こんな興味深い旅行者はほんの少しだけだ。

 

《エセ旅行者の分類》

 

本物の旅行者と言うものは、何ヶ月離れていても、何年会っていなくても、まるで昨日会ったばかりという感覚で話が出来る人間のことなので、自分の旅行を自慢することがない。

「旅行をして自慢しよう」などという下劣な思考回路そのものが存在しない。

それは僕の書くものを読めば、すぐに理解できるだろう。

世界百カ国以上を本当に個人旅行した素晴らしい「世界旅行者先生様」なのにもかかわらず、僕は自分の膨大な旅行を全く自慢することがない。
「旅行を自慢する」というフレーズ自体が、理解できない。

これがド素人旅行者には決してたどり着けない、本当にすごい僕の精神性の高さなんだよね。

ちょっと1か月ほどアフリカや南米やインド(まあ、今時インドで本を書こうとなどというレベルの低い話はないだろうが)に行って、いかにもありそうなエピソードをでっち上げて本を1冊出そうなどという、根性の卑しい嘘つき連中とは、はっきりと違う。

当たり前だが、いくら海外で日本人と出会っても、日本にいる時の生活感覚が一致してないと、旅先でも話は通じない。
アンティグアに来る連中は「バブルで金が余っているスポンサーを騙して金を引き出し、サポート隊を付けて、南米をちょっとバイクで旅行して、大冒険のでっち上げ話を書いて、金もうけをしたい」という、落ちめの作家みたいな低レベルの連中が多い。

しかも、こういうエセ旅行者連中は群れたがるので、「だれだれさんを知っている」「だれだれさんと会ったが」「だれだれさんはすごい人で」、と、いかげんな噂話やエセ情報だけは山ほど持っているのだ。

ただ、彼らの話は、知ったかぶりをして見栄を張りたいだけなので、聞いていても、ちーっとも面白くない。

実は、本物の旅行の話というものには、「情報交換の話」と「相手を面白がらせるための話」の2種類しかない。

つまりどちらの話も面白い。
だからただ見栄を張るためだけに面白くないいいかげんな話をするこういう連中は、はっきりと贋物の旅行者だと考えればいい。

こういうエセ旅行者を見分けるのは簡単だ。

彼らは最初に会った時の態度で2種類に別けられる。
「いやに態度がでかい」か、それとも「おどおどして目つきが定まらない」かだ。

態度のでかいやつは、ほらを吹くだけ吹いて、ばれそうなころにさっと逃げ出すので、こちらが見破っていれば面白くないわけではない。
二番目のおどおどしているやつは、移動する根性もないので、しつこくある場所に住み着くが、そのうちだんだん態度がでかくなってくる。
中身がないのに何とか自分の占める位置が確立すると、居心地が良くなってそこから離れようとはしない。

こういう最低の人間は、世界各地の日本人宿に巣くって大きな顔をして、たいした旅行もしていないくせに、旅行初心者に説教を垂れているので、すぐにわかる。

つまり、アンティグアのような日本人の集まるところに長く住み着いてZENにしょっちゅう出入りしているような旅行者は、この2番目のタイプが多いのだ。

「アフリカはやはり根性を据えたやつがいたね」とぼんやり思う。
それともあの頃はまだ旅行経験が少なくて贋物を見破れなかっただけなのだろうか。

近頃出会う旅行者に本物がいないのは、僕の鑑識眼が透き通り過ぎたせいなのか、それとも近頃の旅行者のレベルが急速に低下したせいだろうか。

そういえば長期旅行者の年齢層がどんどん下がっている。

昔は学生の長期旅行者は珍しくて、大体は社会人だった。
つまり、一度は就職をしたが、自分の生き方に疑問を感じて、自分から日本人としてまともな人生コースをはずれた人達だ。
だからそれなりに人生を考えていたり、自分なりの哲学を持っていたりしたものだ。
そういう人と東南アジアのごみごみした安酒場でちょっと話した事が、今でも強く記憶に残っている。

旅行に出る事が一大事業だったころは、みんなそれなりの覚悟を持っていた。
日本というシステムを外から考えようという強い意志を持っていた。

今旅行に出ているのは、単純に日本からはじき出された落ちこぼれが多い。
「落ちこぼれ」という言葉を決して悪い意味に使っているのではないけれど‥‥。

 

antigua1