バンコックからトランジットでダッカへ着くと、同じフライトの日本人バックパッカーは、親しくなって、互いに助け合う(バックパッカーの鏡)@ダッカ/バングラデシュ
1984年、僕はパキスタン航空で東京から、マニラ経由、バンコクへ。
バンコクで、マレーシアホテルに一泊しただけで、次の日の夕方、ビマンバングラデシュ航空に乗る。
僕は、ネパールの首都カトマンドゥへ向かう。
ところが、バングラデシュ航空のこの便は、バンコクからカトマンドゥへ直行はしない。
多分航空券が安かったせいだろうね。
バングラデシュの首都ダッカで、トランジット(乗り継ぎ)で一泊する。
バンコクから、ダッカへ来て一泊。
翌日、乗客は、それぞれの目的地への飛行機に乗り換える。
翌朝の飛行機で、僕は、カトマンドゥへ飛ぶわけだ。
これは僕が意図したわけではないが、僕にとってはうれしかった。
他の人たちはほとんどが、ダッカで乗り換えて、コルカタへ行くようだ。
この時代、インド旅行と言う場合、ほとんどの人は、1か月以上で、2か月、3か月が普通程度、いま考えれば長期旅行だった。
現在では、サラリーマン、OLのインド旅行がほとんどだ。
そうなると、旅行期間も一週間程度に収まっている。
以前は、長期旅行が多かったので、旅行者はみんな、余裕がある。
旅行計画も、旅先で、出会った人の話を聞いて、変化させるのが普通。
飛行機を選ぶときは、たとえ目的地まで時間がかかっても、値段重視だった。
だから、バングラデシュ航空に人が集まったわけだ。
こんな不便なフライトなので、多分値段が安かったんだと思う。
乗客は、日本人長期旅行者のバックパッカーだらけだった。
チェックインのときから、みんなで声を掛け合って、友達になろうという雰囲気がむんむん。
互いに、目的地を教えあい、一緒だったら、「じゃあ一緒に行こうぜっ!」という話が、どんどんまとまっていく。
いまはそういうことはあんまりないと思う。
ただ、昔のバックパッカーのノリというのは、そんなものだったんだ。
中に一人目立つ若者がいた。
彼は、金髪で、完全に白人の顔と身体をしていた。
ところが、日本語べらんべらんで、みんなが不思議がって聞いたら、正真正銘の日本人だって。
で、英語はしゃべれないそうだ。
ただ、気質的には、アメリカ人なので、陽気で、おしゃべり好きだった。
彼を中心にというか、彼が雰囲気を盛り上げてくれたので、日本人はまとまった。
僕はインド初体験なわけだが、集団の中には、もちろんインド経験もいる。
インド経験者は、インド話をしゃべりたくてたまらないもの。
わからないことを聞くと、親切に答えてくれた。
旅の話というものは、いくら本を読んでもわからないわけで、体験者が一言言えば、なるほどと納得するわけだよ。
僕が心配していたのは、「インドの水は大丈夫か」ということが一番。
これに対しては、「チャーイ(インド風ミルクティー)を飲めば大丈夫」との答えだった。
また、トイレで、お尻に水をかけて、手で洗うのも心配だった。
でもインド体験者の話では、「水で洗うほうが清潔なので、日本に帰って紙で拭くと気持ち悪い」とのこと。
トイレについては、「すぐに慣れる」という話なので、安心する。
他にもいろいろ聞いたよ。
ほとんどは忘れてしまったが、覚えている人がいる。
ゴアに直行する人だったが、ゴアの楽しみについて、ディープな話をしてくれた。
年末には、ヌーディストビーチとして有名な、ゴアのアンジュナビーチで、いろいろ盛り上がるとか。
僕は別に、ゴアが目的ではなかったが、「アンジュナビーチ」という名前を、記憶に刻み込んだ。
その他にも、カルカッタやデリーの話題が、飛び交った。
カルカッタへ行けば、バックパッカーは、「サダルストリート」という所に行くそうだ。
カルカッタの南にあるビーチ、プリーへ行く人も多かった。
プリーには、日本人が固まっている、有名な日本人宿もあるそうだ。
このように、バングラデシュ航空に乗った日本人バックパッカーは、互いの情報を交換していく。
チェックインのときから、「みんなで助け合おうぜ!」という了解ができてたよ。
ただ、ダッカからカトマンドゥに行くのは、僕一人なんだよ。
まあ別に急ぐ旅でもないので、気にはならなかったけどね。
というわけで、バングラデシュ航空は、ダッカに午後の遅い時間に到着。
乗客は、ダッカ空港で降りる。
明日の朝のフライトまで、トランジットホテルが用意されているらしいが、誰もなんとも言ってこない。
待合室の椅子に座って、ボーっとしていた。
すると、日本人バックパッカー仲間が声をかけてきた。
バンコクからの飛行機につんであった僕たちのバックパックが、整理されないまま放り出してあるそうだ。
だから、自分のものを選んで、行き先別のところに置きなおすようにとのこと。
行ってみると、バックパックが山積みになっていた。
僕の緑色の(いまも使っている例の)バックパックを見つけて、それを「カトマンドゥ」という標識のところに置く。
バックパックを取りに来ない日本人もいたので、僕たちが勝手に、行き先を確認して、「カルカッタ」行きのところへ置いてあげる。
このように、昔の日本人バックパッカーは、進んで助け合ったものなんだよ。
バスが来ないので、待合室で横になって、うとうとする。
何時ごろだったろうか、多分午後9時以降だったはず、誰かが「バスが来ましたよー」と声をかけた。
それで、日本人だけだったような気がするが、とにかく大型バスに乗り込む。
バスは、ダッカの市内に出て、夜中の道を走るが、ダッカには電気がほとんどない。
バスは、市内の10階建てくらいの、ビルに横付けする。
明かりはほとんど見えないが、これがどうやら、今夜寝ることになる、ホテルのようだ。
ただ、エレベーターは動いてない。
歩いて階段を上って行くが、階段の壁には穴が開いたままだったりして、キモチいいものではない。
バスを降りたところで、名前を呼ばれ、部屋の鍵は渡されていた。
指定された部屋に入るが、天井の小さな明かり一つだけで、もちろんテレビも何もない。
それから、一応夕食が出たような気がするが、はっきりと記憶にない。
ただ、夕食も取らずに寝たはずはないので、あったのでしょう。
夕食が住めば、とっとと寝るだけ。
空港でほうって置かれて、待合室で寝る体制に入ってた。
ただ寝たいだけだ。
翌朝のフライトについては、バスが空港へ連れて行ってくれる。
特に問題はないはずだが、まあ、問題はあったんだよ(涙)。