《旅のお土産について》(2000/01/20)

海外旅行のお土産というのは、簡単なようでいて、本気で考えると、なかなか難しい。
だから、今では、日本人むけに、世界各地に定番のお土産があり、それを買うことで、日本人は、彼らの思考停止の言い訳にしている。

僕が世界一周旅行をしていたとき、お土産などは、買わなかった。
もちろん、世界一周旅行でお土産を買いながら移動するなんて、似合わない。

しかし、僕には、それ以前に、お土産を買う相手が居なかった。
友達もいなかったし、親には愛想つかされていたし、嫁さんは逃げ出して、別居のあげく離婚されて、天涯孤独、旅先で一人、野垂れ死んでも誰も気にしないような状況だったのだ。

まあ、こういう友達の少ない、人から好意を持たれないタイプの人間でないと、人間関係のしがらみにとらわれて、なかなか長期世界一周旅行なんかには出られない。
これをもっとはっきり言うと、長期旅行をしている人間には、性格的に大きな欠陥があるということだね。

ま、はっきり言うと、ろくな人間じゃないんだよ。

また、一般的に、物を買うということは、逆に物に縛られるということでもある。
旅をしているときは、とにかく物が少ない方がいいわけで、だから、出来るだけ荷物になるような買い物を避ける。

しかし、そういう僕も、ナイロビの市場で、ついつい、観光客らしい買い物をしたことがあった。
買ったものは、色の違った2種類の金属を叩いて、ねじって、組み合わて、曲げただけの軽い腕輪で、値段は日本円で60円程度。
最初は買うつもりなどなかったのに、なんとなく値切りを楽しんでいたら、雰囲気で、買わされてしまった。

これをずっとバックパックに入れたまま旅していたが、面倒になって、いい加減捨ててしまおうかと思っていた。
それを、たまたま、ヘルシンキからストックホルムへのシリアラインという大型豪華船上で知り合った、女性漫画家にプレゼントして、大喜びされた。
その時に始めて、「60円で、これだけ効果があるなら、プレゼントするのも悪くないなー」と思った。

この時、僕は確か38歳。
「女の子はプレゼントされると喜ぶ」という驚きを、生まれて初めて知った、僕にとっては、記念すべき年齢だ。

僕のそれまでの人生では、日常生活でも、仕事関係でも、恋愛関係でも、なにかもらうことはあっても、他人にプレゼントした記憶が全くないという、真っ正直な、真っ直ぐな、純粋な、社会生活不適合の生き方をしてきたのだ。

 

この経験のあと、旅を続けて行く中で、例えば、ペルーのクスコでは、トゥミというインカの祭のときに使うナイフをかたどった銀製のペンダントヘッド、ボリビアのラパスでは、ティワナコ遺跡にある太陽の門をモチーフにした、やはりペンダントヘッド(ペンダントヘッドは、小さくてかさばらず、サイズに関係ないので誰にでもあげられるから)などを買って、旅の途中で会った女の子や、帰国後は日本でも、ばらまいていた。

ある大手雑誌社の取材の仕事で、サンフランシスコのティファニーに行った時、そのころ流行だと聞いていた、オープンハートやビーンズのネックレスを買って、女の子たちに、プレゼントしていたこともある。
一番小さいタイプだったので、サンフランシスコでの値段が、確か一個55ドル程度だったと記憶している(その当時、これが日本では倍の値段で売られていた)。

たいていの女の子は、このプレゼントに喜んでくれた。
ところが、ファッションに一家言のあった、世界旅行者協会の「さとみちゃん」からは、「なーにー、こんなの配ってるのー?だっさー、ついていけないわ。西本おじさーん」という雰囲気の表情をされて、ショックを受けた。
家へ戻って、カップヌードルが出来あがるまでの3分間、じっくりと考えているうちに理解したのだが、さとみちゃんは、「こんな安物を私にプレゼントするんじゃないよ。私はもっと高いんだからさー」というメッセージを発していたのだ。

この時、僕はすでに40歳を過ぎていたが、贈り物については初心者だったので、やっと、「女性へのプレゼントは、相手の雰囲気、ファッション、好みに合わなければ、かえって逆効果になる」と、悟った。
考えてみれば、プレゼントというものは、何を贈るか、その選択によって、自分の全人生がバレバレになってしまう、とても恐ろしい行為なのだ。

それ以後、僕はプレゼントをして馬鹿にされるくらいなら、プレゼントはしない方がいい、と(自分に都合よく)考えて、チープな生活を続けていた。
が、何回目かのLA滞在で、メルローズでセックスショップのDRAKESに出会ってからは、考えが変わった。

「誰もみんなが喜ぶものなら、誰にプレゼントしてもいい!」と。

さて、人間として生きている限り、誰でもセックスが好き。
ということは、女性はバイブが好き。
つまり、バイブをプレゼントすれば、女性はみんな喜ぶ

この完璧な論理は、さとみちゃんにバイブをプレゼントしたときにも証明された。
オープンハートのときには、冷ややかだったさとみちゃんが、バイブをプレゼントしたとたん、にやりと笑って、「西本さーん、なかなかやるじゃん!」という目つきになったのだ。

さとみちゃんは、黒人大好きなイケイケ系だったが、僕の人間関係には他に、「一流国立大学卒ヨーロッパ留学、実家が大金持、超美人、超上品、超エリート妻」というのもいて、彼女にバイブをプレゼントしたら、「西本先生、あのバイブは顔のマッサージに使えますわ」と、しっとりと汗ばんだ、静かに弾んだ声で、丁寧なお礼の電話を頂いたこともある。

実は、僕がセックスの話ばかりして、シモネタばかり書くようになったのは、このころからなのだ。
それまでは、セックスの「セ」の字も言わなかったし、ポコチンの「ポ」の字も書かなかった。

いまでも、セックス関係の話を書くときは、とても恥ずかしい、自分がどこまでも落ちていくような、情けない気持ちがするが、読者が喜ぶのならと、自分を鼓舞して、無理に書いている(うそ)。

 

というわけで、LAに来たときは、女性へのお土産として、必ずバイブを買うのだが、時代が変わり、日本女性の性意識が変化するに連れて、バイブの選び方も、なかなか難しくなった。

日本の女の子がバイブの存在自体を知らなかった(または、知っていても知らないふりをして通用していた)ころなら、小さくて安いバイブをプレゼントしただけで、静かな感動が広がった。
バイブをプレゼントするという行為だけで、贈り手と受け手の立場を超えて、互いに人間として、心の奥深いところでの理解が成立したのだ。

しかし、現在では、女性も自分でバイブを持っている場合が多くなった。
日本でも、知的な女性ならば、バイブの2、3本は、本棚や窓際に無造作に置いてあるものだ。

もともと人間にとって、性欲とは、ごく自然に存在するものだから、それを女性がバイブで手軽に解消することは、決して恥ずかしいことではない。
知的な女性は、それが理論的に、はっきりとわかっているので、歯ブラシや爪切りのような、単なる道具としてバイブを考え、当然のこととして、所有している。

すると、バイブをプレゼントする場合、プレゼント相手の女性がどの程度(大きさ、形、機能など)のバイブを持っているか、それを予想して、それ以上のレベルのバイブをプレゼントしなければ、馬鹿にされることになる。

ごく最近、一見処女のように見える、超美人お嬢様大学院生と会った。
彼女の場合は、オナニーしてるとはいっても、その上品な雰囲気から、おそらく、料理に使うソーセージやキュウリを軽く挿入している程度だろうと予想していた。

ところがバイブの話になると、彼女は「熊ん子型バイブ」(これは、人間と動物が一体になった日本独特の形のバイブで、人間の部分がくねることにより女性の膣を、動物の舌が振動してクリトリスを刺激するという、日本バイブ界の定番だ)を取り出して、僕に見せながら、「ズコズコ突っ込んで、激しくかき回していたら、こわれちゃった」と告白した。

僕はこの時、自分の世界観がまだまだ甘いことを悟り、時代の流れの速さを読みそこなっていたことで、自らを厳しく責めたものだ。

現代では、バイブのプレゼントでも、女性を正しく評価する厳しい目が必要となるわけだ。
思えば、バイブさえあげれば、ウケにウケたころの牧歌的な時代が懐かしい。

だから、いまでは、メルローズのセックスショップでバイブを選ぶときも、頭の中で、「こういうタイプの女性には、こういうバイブ。こんな人なら、これがいいのではないか」と、一つ一つ顔を思い浮かべながら、慎重に選ぶことになる。

僕は、最近、「西本さんは、本当に頭のいい人ですね」と言われることが多いのだが、僕の異常に知的な文章、また、それを成り立たせている綿密な論理は、こういった、バイブを選ぶときの頭脳活動などによって鍛えられていることを告白しておこう。

 

バイブを選択するという活動は、以上に述べたごとく、様々な要素の絡まりあった、非常に難しいものなので、一回で完了することはない。
一つのバイブを選べば、それに関連した性行動を思い浮かべ、その性行動の関連として、別の形の性戯というものが予想されるだろう。
すると、また別のバイブの可能性を考えなければならない。
しかし、選択を繰り返す時の流れの中で、あるタイプのバイブは消滅し、また新しいバイブが出現する。
つまり、バイブを選ぶという行為は、永久に終わることのない、生涯をかけて追求しても終わりの見えない、大変な事業なのだ。

読者も、バイブを買う際には、このような真剣な覚悟を持って行為して欲しい。

 

さて、お土産というものの欠点は、それが品物ならば、残ってしまうということだ。
物は常に、時代から取り残され、見捨てられるという特性を持っている。
それが、後に再評価されることもあるが、それは、過去を懐かしむための材料にしか過ぎず、そのもの本来の意味での評価ではない。

それでは、時代に取り残されず、見捨てられず、いつも新鮮なものはないのだろうか?

ある。
それは、記憶だ。
行動の記憶だ。

過去の自分の行動は、たとえ忘れ去られたように見えても、思いがけなく、突然生き生きとよみがえり、よみがえる度に、新鮮な感動を与える。

ある人との出会いが、思い出すたびに、美しいものになる。
もちろんそれは、事実とは異なっているかもしれないが、もともと事実というものも、ある出来事の、ある時点での恣意的な解釈でしかないのだ。
だから、記憶をプレゼントするのが、一番いいことになる。

僕が女性との関係で、バイブを自分で使わないのは、女性に、バイブの記憶ではなくて、僕のフトチンの記憶をプレゼントしたいからなんだ。
せっかくあこがれの女性と性行為をしたのに、「あのときのバイブはキモチよかったわー」と言われてしまったら、それは、バイブに負けている。

また、バイブが女性の膣に挿入されていたり、クリトリスを刺激しているとき、僕自身はキモチイイわけではない。
しかも、バイブは生き物ではないので、バイブ自体もキモチよがったりしない。
バイブはただその作られた目的の通りに、うごめき、震え、回転するだけだ。

ということは、二人いるのに、女性だけしかキモチよくないわけだから、非効率。
また、バイブの電池の消耗を考えれば、完全な資源の浪費。

だから、一番いいプレゼントは僕とのセックスということになり、バイブはプレゼントした僕を思い出すための、道具となる。

こうして、僕のバイブは、僕自身を象徴することになる。
だからこそ、どのようなバイブを選ぶかは、とても大切で、あだやおろそかに出来ることではない。

そして、今日も、僕はバイブを買いに、メルローズへ出動する。
女性に、世界旅行者との、清らかな想い出をプレゼントするために…。

(難しいバイブ選び)

a well-selected vibrator will certainly remind a lady
with whom the worldtraveller had sex
of his thick and shapely dick
and sweet memories
he gave her on or off the bed

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