《大理・日本人レストラン菊屋で、世界旅行者は第一夜の説教をする》
海外旅行をしていて、僕が日本人だけが集まる日本人宿や、日本人向けレストランに行くというと、「海外に出てまで日本人同士でつるむんじゃねーよ(ぷんぷん)」と考える人がいるかもしれない。
でもそれも、ちょっと意識しすぎだと思うよ。
海外に出たからって、日本人は日本人のままだ。
個人旅行をしているからといって、日本という国籍を離れた「地球人」になったわけではない。
それどころか、海外に出ているからこそ、日本という国、自分が日本人であるってことを意識するものだよね。
もちろん僕は、外国人と出会えば、普通に外国人とも話をするし、もちろん日本人とも自然と話をする。
ただ、日本人のほうがより深く理解しあえるし、それだけ面白いといえるだろうね。
それは、結局言葉の問題でもあるだろうし、文化をどれだけ理解しているかということだろう。
例えば、日本人と話をするなら、ちょっとした言葉の使い方を聞いただけで、どれだけの教育があり、どれだけの社会的地位で、どれだけの社会的経験があるか、またその考え方まで簡単に予想できる。
すると、さらに深く話をすることも出来るわけだ。
旅先で外国人と会って話をする場合は、会話はパターン化されていて、別に難しくもなんともない。
また、議論をするにしても、それは議論のための議論で、それによって相手を深く知ることにはならない。
というのは、文化的背景の理解がない、ただの会話、言葉のやり取りというものは、表面的なだけで、言葉が上滑りしているからなんだ。
日本人というのは、日本で会って話をすると、ちっとも面白くない。
それは、日本人が自分の社会的な殻の中に閉じこもって、自分を見せず、自分を守り、社会的な立場からの空虚な言葉をもてあそんでいるからだ。
しかし、日本人が日本を離れて、個人旅行をしている場合は、これは大きく違う。
日本人の最終防御である日本の社会システムから出てしまった日本人は、カタツムリが殻を取られてしまったように無防備だ。
これに対して、外国人は最初から殻で自分を守っていないナメクジなんだよ。
日本人は一見似ているようでも、実際はナメクジではなくて、殻を奪われたカタツムリなのだから、海外では完全に無防備になってしまう。
同じ言葉をかけても、外国人にはこたえないが、日本人にはグサグサッとこたえる答えるってこともよくあるよ。
それは、日本人は基本的には人間を信じていて、自分が心を開けば相手もまた必ず心を開いて応えてくれると考えているからだ。
これが、小さな農村共同体の中で、身体を寄せ合って生きてきた、日本人の特徴なんだよ。
日本人はその心を開ける関係を自分の属する社会的共同体の中で実現させようとする。
その共同体が日本人を守る殻で、この中ならば、日本人は心を開いて、言いたいことを言い合って、馴れ合って、甘えあって生きることが出来るわけだ。
だから、その殻がない海外で一人旅をしている日本人は、非常に弱い立場だ。
これが、日本人が海外では簡単に騙され、盗まれ、奪われ、犯され、てしまう原因なんだよ。
だから、日本人を考えるためには、日本国内でいくら話をしてもわからない。
海外に出て、日本人が日本の社会関係、共同体から離れた無防備な状態になったところで話をすれば、いろいろとわかることがあるわけだよね。
というわけで僕は、そろそろ人が来ているだろう夕方の7時ごろになって、菊屋へと向かった。
菊屋は表にテーブルが出ていて、店の中の壁沿いにテーブルが三つずつ6つのテーブルがあった。
奥のほうにキッチンがあるようで、そこには、お店の女の子が2人と、犬が一匹いるだけで、客が一人もいなかった。
オイオイ客がいないのか、と思ってもガッカリしない。
だって奥のテーブルの横には、日本人の溜まり場には必ずある、日本語の文庫本が本棚にずらりと並んでいたからだ。
チラッと見ると、ここには、ずいぶん昔の「地球の歩き方・中国」が何冊もあるのがうれしいね。
昔の「地球の歩き方」なんて、今読もうと思ったら、国会図書館にでも行かなければ読めないんだからさ。
自分で持ってきた本に、日付と自分の名前と、わざわざ「寄贈」と書いて、店の女の子に見えるように本棚に入れる。
本棚にあった軽く読める本を二冊ばかり取って、自分のバッグに入れる。
まあ、旅人というものは世界各地で自分の本を寄贈し、また本を取りして、読みながら移動し、さらに新しいところへ本を置いて、さらに本を取っていくものなのだ。
最近は旅行の基本がわからない旅人が多くなって、本を交換せずに本をとっていく人が多いらしい。
そのせいか、変に本を取られるのを嫌がっている所もあって、「本を持っていかないでください」とか「本はここで読んでください」とか書いてあったりする。
が、それは無視していい。
旅人は、本を持って異動して、本もまた旅をするものなのだから。
例えば僕がアジア横断をしたときに乗った燕京号には図書室があって、そこには「本を持って行かないでください」とあったが、僕は自分の本を一冊寄付して、三冊持って出た。
こういう行為は、法律的には間違っているかもしれないが、それを超える世界旅行原則によって正しいので、躊躇することはない。
その本はまた、どこか旅先のホテルのライブラリーに入ったり、バックパッカーの集まる地域の古本屋などで売られたりして、結局は旅人の手に入るものなのだからね。
また、中国で読んでいた本を帰りの燕京号に寄付していく旅人もいることだろうさ。
しかし、やはり、この時期の大理には日本人が多くないようで、日本人がなかなか現れないよ。
仕方ないので、肉野菜炒めをつまみにして、チンタオビールを飲み、次の行動を始めた。













世界旅行者は大理の菊屋で
青島ビールを飲みながら、
情報ノートをチェックする
それは、こういう日本人レストラン、日本人宿には必ず存在する「情報ノート」を読んで、書き込むことだね。
菊屋の情報ノートには、色々と書いてあったが、たいして面白い話もびっくりするような情報もなかった。
まあ、目だったものでは、ベトナムとの国境の町河口でベトナム娘が売春をしているその値段が40元(ショート)だとか、プノンペンの軍キャンプでピストルやライフルや手榴弾を試せるという話(その値段)、ベトナムのサパへ行くバスの値段とか、昆明のインターネットカフェの場所とか、その程度のものだ。
一応目を通して、あとは、この情報ノートに自分で書き込む。
せっかくだから、世界旅行者の自己紹介、本の紹介、僕のウェブサイト「世界旅行者の部屋」のURLを紹介して、自分の旅行用e-mailアドレスを書いておいた。
どんどん書いていったら、なんと、3ページも使ってしまった。
この僕が書いたことが、後に大理の旅行者の間に波紋を起こすことになるので、覚えておいてね。
僕は世界中で、情報ノートがあれば必ず書き込むことにしている。
考えてみれば、情報ノートというものは、何年間も保存され、暇な旅行者が隅から隅まで読むものだから、結構宣伝効果が高いのではないだろうか。
ただ、情報ノートは現地で購入するものなので、材質は決してよくなくて、ボロボロになっていたりする。
だから、広告入りの丈夫な情報ノートを作って、世界中の日本人宿、日本人の溜まり場にばら撒けば、結構な宣伝効果が得られると思うけどね。
この提案、電通が採用したら、僕にちゃんとアイディア料を払わないとダメだよ!
そうこうしているうちに、日本人旅行者もいろいろ入ってきたが、カップルや二人連れなので、どう話のきっかけを作ろうかと考えていたとき、中年男性が1人で入ってきた。
これは一番声をかけやすい状況なので、「日本人でしょ?こちらに来ませんか」と呼んで、世間話を始めた。
この旅行者は、日本の高校教師だそうで、夏休みを利用して短期間、大理へやってきた。
大理の周辺の小さな村などを訪れるのが趣味だそうで、今日もどこかの村へ行って、ぶらぶら歩いていたらおばあさんから家へ招きいれられて話をしたとか。
いわゆるサラリーマンの旅好きというタイプだが、彼そのものの話はあんまり面白くない。
本当に面白い人間というのは、自分なりの「旅のモチネタ」があるものだが、それがなくて、ただ話を受けることしか出来ないのだ。
これは、本物の旅行者ではないね。
本当に旅慣れていたら、旅の会話も上手なはずだ。
旅の会話というのは、その場を盛り上げるのが目的なので、相手に合わせていろいろなパターンを知っていなければならない。
こちらがわざとボケたらすぐに突っ込み、またボケ返す。
ちょっと振られたネタを自分で大きくして、それに自分で突っ込んで、話にオチをつけて、さらに別の話を振る。
こういうことが自由自在に出来ないと、本格的ではないんだよ。
旅の話の特徴は、自分の意見なんかないということ。
例えば、政治についても社会についても経済についても、自分の意見を本気で言ったりせず、相手に合わせて、調子に載せる。
旅の話はただ、面白おかしく、盛り上がればいいだけなのだ。
彼は、一応高校教師だというが、正直言うと、僕は半分しか信じていない。
旅先で出会う人の職業、学歴は、基本的に信じられないものなんだよ。
ただ、疑っていても疑いを表面に出すのはルール違反だから、職業も学歴も、相手を信じた振りをして話を勧め、途中でウソだと気づいても、そこは追求しないことになっているんだよ。
ただ、よくいるわけのわからない自称旅行通とは違って、彼は社会性があるので話はいろいろと弾んだ。
というか、僕が話を弾ませたんだけどね。
日本の青少年教育から、帰国子女問題、援助交際問題など、べらべら話していたら、9時ごろから話し始めて、夜の12時になって、店が閉まるまで話を続けてしまった。
店にいた他の旅行者も、話に参加したそうなのがいたが、今日はそれほどわいわいやる気もないので、声をかけなかった。
だって、今日は、昆明から大理に着いたばかりなんだし、明日は麗江へ移動するんだから。
というわけで、深夜12時にお開きにしてホテルの部屋へ戻り、取ってきた本を読みながら、眠りに着きましたとさ。
「おいおい、ちっとも説経してないじゃないか」というご意見もあるでしょうが、それは違います。
ちゃんと説経してますよ。
僕は、情報ノートに、こういうことを書いていたんだ。
「情報ノートに書いてあることがちっとも面白くない。もっと面白いことを書け」
「誰でも知っているようなつまらないことを書くな、情報がちっともないじゃないか」
「自分の旅行の失敗談を書け。読者を楽しませろ。だからキミたちは女にモテないんだよ」
「女は日本人が一番いいんだよ。ベトナム女を買ってもちっとも自慢にならない。女を買ったら、性病になったというオチをつけろ」
「大理程度に何回も来たようなレベルの低い話で、中途半端な自慢をするんじゃない」
「キミたちのようなド素人旅行者は、世界旅行者の本を読んでもっと勉強しなさい!」
なんてね。
実は、今日の説経とは、菊屋の情報ノートの中に、うんざりするくらい書いた内容そのものだったんだよ(笑)。
さて、大理へ来て一泊して、絵葉書も出したし、菊屋の情報ノートにも書いた。
さあ、明日は日本人の沈没地として名高い(?)麗江へ行くぞーっ。
(「世界旅行者・海外説教旅」040)
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