『人は説教する動物である/説教論その1ー説教権の成立(説教権神授説)』
さて、海外旅行に出ると、どんな人でも、少しでも脳味噌のある人ならば、考えることがある。
つまり、自分の人生を考え、自分の生きてきた国のことを考え、自分のこれからの生き方を考える。
バリ島なんかで、何も考えず、現地の男性ときゃっきゃ、きゃっきゃ遊びまわっている日本女性などは、だから旅行をしているとは言えない。
彼女らは、ただセックスしているだけだ。
それがたまたま海外だったというだけなんだ。
だから、日本女性のバリ島旅行イスタンブール旅行などは海外旅行ではない。
私たち専門家の間では、これを「海外セックス滞在」と呼ぶことになっている。
日本で出版されている普通の旅行記、旅行本には、深い話がない。
旅は人生の中でどう位置づけられるのか、そもそも旅行とはなんなのか、そういった深い哲学的な話があるのは、世界旅行者の三部作「間違いだらけの海外個人旅行」「これが正しい海外個人旅行」「大人の海外個人旅行」だけだ。
日本の普通の旅行本にあるのは、「僕はこんなすごいところへ旅をした」「私は外国人とこんなに親しくなりました」「僕は普通の日本人とは全く違った旅をしました」「俺は誰も考えられないようなことをした」「あたいは現地人にモテモテだったよー♪」等々、こういう自慢話だけだ。
こう並べてみると簡単に、誰でもわかることがある。
つまり、旅行記、旅行本を書いている人の真の目的はただ単に「俺はてめーらみたいなありふれた人間とは違って、特別なんだ。だから、俺の方がずーっと偉いんだよ!」と、こう言いたいだけなんだ。
これは、「世界旅行主義」の定理一つ「人は他人より自分が偉いと思いたいだけのお猿さんの進化したもの」という言葉にすべて集約されている。
「世界旅行主義」は一般理論なのだから、人間というものはすべて、「自分は他人より偉いんだ」と、考えている(考えたい)わけだ。
しかし、ちょこっと旅に出たくらいで、それをネタにして、「俺はてめーらより偉いんだ!」と、わざわざ本まで出して主張するというのは、単なる世間知らずで、たいして偉くない。
偉くないどころか、単純に、馬鹿っぽいよね。
海外旅行なんて、誰が旅に出ても、、日本と違った環境に身をおくのだから、少しは面白いことはあるわけだ。
だからといって、それをなにか自分だけ特別な経験をしたかのように思い込んで、本まで出そうというのは、やりすぎだよ。
旅に出ただけで、自分が偉いと思えるその頭の単純な構造時代が、ものすごくレベルが低く、他人よりも完全に劣っている。
旅行者が嫌われる理由は、たいしたこともない海外旅行で、根拠のない間違った自信をつけて、人にアドバイスをしたがるところだろうか。
もちろん正しいアドバイスならば、人の役にも立つし、当然感謝される。
しかし、頭が単純な(頭の悪い)旅行者は、今までの人生で一度も人から感心されたこともなく、人に教えることはなかった。
すると、旅先でちょっとアドバイスして感謝されたことがうれしくて、さらにアドバイスを続けようとする。
でももちろん、たいした旅行経験はないので、自分の旅行経験からの正しいアドバイスのネタがすぐに尽きてしまう。
すると、旅行本を読んだり、今ではインターネットで調べたり、同じような低レベルの旅行者同士で情報を交換しあったりして、海外旅行を「勉強」する。
自分自身の経験がないのにアドバイスを続け、「旅行通」「旅行ベテラン」との地位を獲得し、他の旅行者の上に立ちたいと考える。
でもね、海外旅行というのは勉強するものではないし、勉強できるものでもない。
海外旅行というのは、本を読んだりしても絶対にわからない、ただ「悟る」しかないことなんだよ。
だいたい、日本で海外旅行通と呼ばれている(ま、誰も呼んでないんだけれど、自分で思い込んでるってことね)連中の旅行経験といったら、ものすごく少ない。
せいぜい「東南アジアに何回か行った」程度だ。
それで、インドへでも行って、カルカッタの安宿街に泊まって、北部インドをデリーまでちょっと横断すれば、ありふれた「旅行通」の出来上がりだ。
最近は、世界一周の航空券で、半年程度世界を飛び回って戻ってくると、旅行ベテランだと思いあがる、素人さんも多い(笑)。
でもね、世界旅行者の僕は1970年代に、自分で安い切符を買って、ホテルを自分で見つけて、シンガポール、タイ、香港を、新婚旅行で回ったんだよ。
1980年代には、ネパールからインド、スリランカ、タイ、と個人長期旅行もやっている。
その前には、台湾、タイ、ビルマ、マレーシアと、個人旅行もした。
もちろんその以前には、企業戦士として海外に駐在していたこともある。
世界旅行者は、今の旅行通諸君がガイドブックを読み漁り、インターネットで調べまくり、旅の噂をかき集めて、日本人だらけのアジア旅行をする何十年も前に、もうすでに、とっくに、そんな程度の旅行は終えてしまっているんだ(やーい♪)。
しかも、2年8ヶ月かけて、たった一人で世界5大陸を連続して回る、本物の世界一周旅行をしている。
さらに、世界一周旅行の後、LAに半年もぼーっとしていて、その旅行を反芻し、考えてきたわけだ。
それだけでもゲップが出るほどの旅行歴だよ。
けど、そんなに旅行していてもまだ旅行国数が100カ国を越していなかった。
だから、簡単に旅行国数が100カ国を越えていると主張する連中が。完全な嘘つきだということはわかるよね。
そこで敢えて、アフリカ縦断、東欧縦断、キューバ、へと足を伸ばして、二回目の世界一周旅行をした。
わざわざヨーロッパの小国を、旅行国数を増やすためだけに旅をした。
これだけのことをやって、やっと旅行国数が100カ国を越した。
旅行国数が百カ国を確実に超えても、アジア横断旅行、西アフリカ旅行と旅を続けた。
さらに、今回の東京からバンコクまで、陸路、海路の旅行をしてしまった。
もちろん、中国、ベトナム、カンボジア、タイは、すでに旅をしている。
これだけの旅行経験があれば、それは、海外旅行に関して、たいていのアドバイスはできるよ。
上海からバンコクへ旅行をしても、旅行国数が増えるわけでもないが、ルートとして面白いから旅をする。
ここまで行ってるから、だからこそ、僕は世界旅行者なんだよ。
普通の、アジア大好きの馬鹿「旅行通」なんかとは、完全にレベルが違うのが明白だ。
その上、英語は英検一級(1976年に取ってる)どころか、日本人はほとんど取得不可能といわれるケンブリッジ英語検定試験の特級CPE(Certificate of Profeciency in English)を持っている。
ついでに唯一の国家資格、通訳案内業試験にも合格している。
フランス語も、スペイン語も話せるから、西アフリカ旅行も、中南米旅行も、何の不自由もなく旅行できる。
海外旅行というからには、やはり、現地の人や、外国人旅行者諸君と、思ったことを自由に話ができないとだめだ。
旅をしても、日本語しか話せなければ、現地の人との知的刺激がないわけだから、深くは考えられないわけだ。
その点で、英語もまともに話せないようでは旅行者としてはレベルが低すぎるんだね。
だから、海外旅行本が本物かどうか、読む価値があるかどうか、それは、著者紹介を読めばすぐわかる。
世界旅行者の場合は、「京都大学工学部卒業で、世界百カ国以上を個人旅行して、しかも、英語、仏語、西語に堪能」とはっきり書いてある。
これなら、読む価値があるわけだ。
安っぽいでっち上げ旅行本の著者紹介を読むと、出身大学が記載されてない場合が多い。
これは、単純に、「一流大学出身ではない。おそらくは高卒か三流馬鹿私立大学卒」と読まなければならない。
まあ、なんと言おうと、日本は学歴社会だよ。
まともな人間なら、一応受験戦争に参加する。
で、普通のレベルの頭の人間なら、一流国立大学を目指し、失敗しても滑り止めとして、早稲田か慶応程度には合格するだろう。
誰が考えても、三流大学を出て就職もせずただ東南アジアを旅行していただけの人間の書いた本なんか、読んでも役に立つはずがない。
読むだけ金と時間の無駄だよね。
でも、早稲田や慶応程度を卒業していても、入学金も授業料も高い私立大学に通って、その後旅行の本しか書けないようでは、そんな人間の書くことなんか読む価値がないよ。
また、旅行本を書いていながら、著者紹介に旅行経験がはっきり書いてない場合、これは、旅行経験はほとんどないと読まなければならない。
旅行本を書く人間は旅行自慢のはずなのだから、一番大切な旅行経験を発表できないという意味は「旅行経験を公表したらあまりに少なすぎて馬鹿にされる」ということなんだからさ。
そこをじっくりと考えると、旅行について本を書ける資格があるのは、世界旅行者先生しかいないのだと、ちょっとでも正常な理性を持つ人間ならば誰でも理解できるだろう。
すなわち、海外旅行の本を書けるのは世界旅行者だけで、さらに、海外旅行について人に説教できるのは世界旅行者だけだ、と正しく理解できる。
もちろん、このことも事実として証明されなければだめだ。
理論だけならば誰でもいえるのだからね。
実際に世界旅行者は、海外のありとあらゆる場所で、いろんな状況で、様々な旅行者と出会い、出会えば必ず話かけて、酒を飲み、一緒に旅をして、さらに深い話をし続けてきた。
その結果、世界旅行者と五分に対話ができるほどレベルの高い人はほとんど存在しないのに気がつく。
しかし、世界旅行者はものすごくおしゃべりなので、対話を諦めても、黙っていることができない。
世界旅行者の対話は、自然と、説教に転化することになる。
もちろん、世界旅行者が説教するのは、説教する価値のある人間に対してだけだ。
ほとんどは説教しても仕方のないレベルの人間ばかりなので、だいたいは無視するか、ちょっとからかったりするだけなのだから。
だから、世界旅行者に説教されたら、それは、説教する価値のある人間だと認められている。
だから、大喜びして、お礼を10万円ほど包んでほしいものだね。
さて、世界旅行者が説教を始めたのは、いつからだったろう。
そう、思い出すのが、LAのリトル東京、三番街と四番街のあいだにあるヤオハンプラザ、そこの旭屋書店で、まだ漫画本がいくらでも立ち読みできたのどかな時代。
その時代から語り始めなければならないだろう。
2年8ヶ月の世界一周旅行を終えて、日本に戻ったときは、まだバブルの絶頂期で、僕はその軽薄な社会の風潮に耐え切れず、LAへ逃げ戻って、米国の滞在期限ぎりぎりまで、6ヶ月ほど滞在していた。
このLAに長期滞在したとき、このときが、本格的に、僕を作ったのだと思う。
なぜなら、僕はLAで何もせず、多くの人と出会い、人生を考えていたからだ。
その日常の中で、旭屋書店に行って、漫画を立ち読みするというのも、一日の過ごし方だった。
そこで、僕は、「厳格に訊け!」という漫画を読んだ。
著者は、ゴーマニズム宣言、おぼっちゃま君、東大一直線、最近は、戦争論、台湾論などで有名な、小林よしのり。
小林よしのりの書くものは、説教そのものだが、それは、実家がお寺なのだから仕方がない。
さて、一般にこういわれている。
坊主だから説教するのではない。
説教が好きな人が坊主になるのだ。
AV嬢だから、セックスするのではない。
セックスの好きな女の子がAV嬢になるのだ。
しかし、こういう耳障りのいい、気の利いた風な、わかりやすい言葉に、簡単に納得してはダメだ。
人は誰でも自分が他人より優れていると思い込みたいものだ。
他人より自分が優れていると思う人は、他人に説教をする。
ということは、人はみんな、説教をしたいものなのだね(坊主になるかどうかはわからないが)。
また、人はみんなセックスが大好きだ。
人はただ、セックスをするためにだけ生きているのだから。
ということは、日本女性は誰でも、AV嬢になりたいものだ。
AV嬢にならない人は、ただ、AVのスカウトに声をかけられないだけだ。
ここまで述べたように、人はみな他人より自分が偉いと思っているので、他人に説教をしたいものだが、そのほとんどは勝手な思い込みなので、説教する資格がない。
説教されても、何の役にも立たず、迷惑なだけだ。
ところで、誰が見ても他人よりも優れている人は、神から他人に説教する権利を与えられる。
これを説教権と呼ぶ。
ここに説教権が成立したわけだね。
説教権は、神から与えられた、特別に選ばれた人間だけが行使できる権利だ。
上述したように、神に選ばれ、神によって正しく世界中を旅行した世界旅行者には、説教権が授与された(説教権神授説)。
しかし、すべての権利は、ただ保持しているだけでは意味がない。
権利の上に眠るものの権利は、保護されない。
つまり、説教権を持つ世界旅行者は、説教をし続ける義務があるということになる。
その説教の場所として、世界旅行者は、上海からバンコクへの陸路旅行を選んだ。
それは、この行程が、日本人旅行者がウジャウジャいる東南アジアへ入るメインルートで、現在の日本人旅行者の状況をはっきりと観察できるという理由もあったわけだ。
というのは、説教するためには、説教する対象をちゃんと理解する必要があるからだね。
http://d.hatena.ne.jp/worldtraveller/20090311
(「世界旅行者・海外説教旅」008)