そして「ホテル加宝物語」が始まる

【ホテル加宝@460E,4番街】
「どうしよう!」
目の前には伝説の迷宮「ホテル加宝」のドアが、僕を誘うように開いている。

しかし、もちろん引き返すこともできる。
待て、待て、ちょっと待て!

僕がいままでに読みふけってきた膨大な本の内容を思い出そう。
そして、決断を下せばいい。

僕は、こういうときのために、勉強をして知識を蓄えてきたのだからね。
え〜と、ドイツのお話の「ヘンゼルとグレーテル」では魔法使いの小屋に入ってしまって、ひどい目にあったっけ。

ということは、こういうわけのわからない建物には入らない方がいいということだ。
でも、中国には「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という諺もある。

これは、確か「虎の女性器にチンコを挿入しないと虎の子供は生まれない」という教えだよね(違うかな?)。
う〜ん、ドイツ民話と中国の諺はどちらが日本昔話だろう?

頭が混乱して、決断ができず、加宝の開いた鉄格子のドアの前で硬直状態になってしまった。
その時、うしろから声が聞こえた。

「ヘーイ、マーン、チェーンジ、プリーズ!」
振り向くと、体の大きい黒人が右手を差し出して、僕を見つめている。

ホームレスの人らしい。
おっとっと。

思わず後ずさりをすると、ホテルの入口の高くなったところにぶつかって、よろける。
そのまま、ふらふらっとホテルの中に入ってしまった。

鉄格子のドアが、ガチャーンという音を立てて、目の前で閉じた。
格子に手をかけて押してみるが開かない。

どうしたらいいのだろう?
ふと横に目を移すと、入口を入った左側に、窓口がある。

そこに魔法使いのような、東洋人らしいおばあさんが座っていて、僕を見つめている。
こうなったらしかたない、ホテルに入ってすることはひとつだけ。

部屋があるかどうか聞かないわけにはいかないだろう。
「エクスキューズミー、マダーム。ドゥーユーハブアルーム?」と、聞いてしまう。

するとその東洋人のマダムはおもむろに口を開いた。
「あなた、日本人ね。英語つかわない。わたしわからないよ」

そして、そのホテルの事務所から出てきて、僕に言った。
「へや、いま3つあるよ。見るか?」

「はい、よろしくお願いします」が、素直な僕の返事だ。
この怪しげな日本語を話すマダムが「おばちゃん」で台湾出身者だという。

後でわかったのだが、このホテルのオーナーの親戚で、実質的な経営者だった。
このおばちゃんと一緒に部屋を見て歩いた。

「ホテル大元」に比べると、信じられないくらいに設備がいい。
部屋は2倍以上広い、ガス暖房の設備があって、テーブルも椅子もタンスもある。

TVも全室に付いている。
廊下は広く、共同のシャワーもトイレも清潔だ。

「ホテル大元」にはベッド以外に家具と呼べるものは無く、暖房はもちろん、TVも無かった。
テレビは希望者に一晩6ドルで貸し出していた。

これでは「ホテル加宝」へやって来た旅行者が「ホテル大元」へ戻らないのは当然だ。
感動して、部屋をチェックしながら、うろうろしてしまう。

結局、TVをつけてみて一番うつりのいい部屋にした。
それが203号室だ。

この部屋は4番街に面したシングルルームで、ベッドはキングサイズ。
部屋を決めて、すぐに「ホテル大元」へ取って返し、荷物を持って帰ってきた。

ダイマルを出る時は、「サンフランシスコの友人のところへ行きま〜す♪」との口実を使った。
僕が大元を出るのは、ホテルの設備云々よりも、泊まっている人間のレベルの低さに呆れていたから。

だからもちろん、一緒にホテルを移ろうと誘うこともなかった。
すぐそばにあんなにいい設備のホテルがあるのに、ダイマルに宿泊を続けているような人間を救う意味は無いからだ。

「ホテル加宝」へバックパックを運び込み、落ち着く。
3番街と4番街、アラメダ通りとセントラル通りに囲まれたブロックにある「ヤオハン」へ歩いた。

いままで買い物をしていた、2番街にある「モダンフードストア」とは比べ物にならないくらいに大きい。
大きな駐車ビルが併設されていて、買い物に来ているのは日本人駐在員の家族や金持ちの留学生崩れが多い雰囲気だ。

同じ建物の中にはボーリング場や日本映画館もあり、大規模な「旭屋書店」もテナントとして入っている。
こんな近くにこんな大きなショッピングモールがあることを知らなかったなんて!

「ヤオハン」で2リットルの生ビールを買ってきて部屋で飲んだ。
僕はいままでほんの2ブロック離れたところに、こんな全く違った世界が広がっているとは思わなかった。

レベルの低い人に怒って、その結果、自分を傷つけていた。
考えてみれば、無駄で、無意味なことをしていた。

ダイマルの宿泊者は、いまでもあの狭い部屋と狭い行動範囲から抜け出すことを考えようともしないだろう。
「リトル東京から南へ下ると危ないよ」と牽制しあって、小さな幻想の世界を守ろうとしているだろう。

もっともっと大きな本当の世界が広がっていることに気づかない。
彼らは、豚の生活を送っているのだ。

僕はそこから抜け出した。
それを彼らに語ろうとは思わない。

なぜなら、神は自らそう望むものだけを救うからだ。
自ら一歩を進めるものだけに、神は祝福を与えるからだ。

しかし本当のところは、神は救うものをすでに決定されているのだ。
僕が神に選ばれて「ホテル加宝」へ移ったのは、こういう事情があった。

そして、これから僕の新しい人生が始まった。
この日が、1988年12月31日だった。

そして、大ベストセラー確実の、抱腹絶倒、しかも心温まる出会い満載の「ホテル加宝物語」が始まったというわけだ。

注:この「ホテル加宝物語」に興味のある出版社は、恥ずかしがらずに、世界旅行者までお問い合わせください。
この続きは「ホテル加宝物語(1989/01/01-1989/03/06)」へどうぞ。
http://d.hatena.ne.jp/worldtraveller/20080524