「東大を頂点とする日本の学歴システムが、お受験を生み出している」(cuba14)

 

日本の学歴システムをここで解説しておこうと思う。

海外でちょっとまともな人と出会い知的な話をするとき、日本の社会システムについて説明することになり、さらに日本の会社組織やその経営戦略の決め方などに話が及ぶことがよくある。

そこで、建前や公式論ではなく、その裏話として学歴による差別を取り上げると、感心してもらえて、ついでに自分を高く売り込むことが出来る。
といっても、自分を知性や学歴で売り込むためには、もちろん自分が高い学歴を持っていなければ話にもなんにもならないのだが。

さて、日本の学歴システムは非常に簡単な構造をしている。
一番上に東京大学が存在する。
そして二番目三番目はない。

東京大学以外は学歴としては意味がない。

現代日本に生きている限り、ある程度の知能がある場合、すべての人が一度は東大をめざす学歴獲得競争に参加したはずだ。

その競争の様々な段階でほとんどの人が敗れ去り、その他の大学に入って(あるいは入らず)、「自分は駄目な人間なんだ」と劣等感に苛まれながら、日々を飽食やSEXや権力への闘争にあけくれている。

しかし東大に入れなかったという日本人としての絶対的な敗北感は、なにをもってしても決して癒されるものではない。
日本人全員参加の競争で、「キミはダメな人」と一生消えない烙印を押されてしまったのだから、なにをどうしようとも、絶対に逃げられないのだ。

東大を出ていない人は、飲み屋で「日本の教育制度はね…」と教育の問題点を話し始める時、どこからか「ところでキミはそれを東大を出て言ってるのかい?」と話しかけられるのではないかと、ビクビクしている。

会社でOLに猥褻行為を繰り返したり、満員電車で女子高生のスカートに白い液を飛ばしたりして逮捕され、「一流大卒エリートサラリーマンのあきれた犯罪」と週刊誌で報道されても、実は逮捕されたことよりも、読者から「おいおい、この大学が一流大かい?ふざけるんじゃないよ。チカンするなら東大を出てからやれよなー」と突っ込まれることがもっと恐ろしい。

このように、東大以外は意味のある学歴とは言えない。

すると、小さいときから有名私立大学の付属小学校に入れたりする親の努力(お受験)はどういう意味を持つのだろうか?
子供を慶応幼稚舎に入れて、エスカレーター式に慶応大学に入って無事卒業したとしても、まともな人は誰も学歴としては評価しないのだが。

これも、東大を補助線として考えるとよく理解できる。

東大に合格することは人生の勝利を意味する、しかし敗北するのは恐い。
自分が東大に入れないレベルの、日本人としては駄目な人間だとの、明白な敗北を認めるのは耐えられない。

しかし、まともな人は東大をめざして努力し、東大入試に失敗したら、その敗北を堂々と(あるいは不承不承)受け入れて、日本社会の片隅で細々と生きてゆく。

東大に入れなかったら日本人としての人生は完全に終わったわけだが、それでも死ぬわけには行かないのだから。

東大卒の一流の学歴がなくても、人生もそれなりに(あくまでも「それなり」だが)、庶民としてのささやかでちっぽけな楽しみが得られることもあるのだからね。
もちろん東大に落ちてしまったら、日本人である以上、人生の本当の喜びは絶対に持てないわけだが…。

だから、東大受験を回避する戦略が考えられる。
東大不合格によって「あんたはダメ」と宣告されるのを避ける一番いい方法は、積極的に理由を作って東大受験から逃避することだ。

お受験で慶応幼稚舎に入学させようと莫大なお金を使う両親はだいたい東大卒ではなく、金だけはあるが頭の悪い、芸能人や中小商店のオーナーだ。
もともと東大入試に挑戦できるレベルの人間ではない。

ここで自分の子供が東大に入れないと、「親は馬鹿だったが、子供もやっぱり馬鹿だった」と見事に証明されてしまう。

自分の遺伝子が劣っていると証明されるのを避けるためには、お金やコネを使って、出来るだけ早く東大受験の可能性を自分から捨てるのがいい手だ。

「うちは受験戦争で青春を使うのはムダだと考えまして、もっと自由に自分の好きなことが出来る環境を与えたかったんです。ですから、慶応幼稚舎から大学までエスカレーターで行きましたけれど。でものんびりしちゃって…」

この言葉は「私は馬鹿だったんですが、お金はあるんですよ。でも、息子まで馬鹿だとわかると、恥ずかしいですから、馬鹿の集まる所へ逃げたんです。でも馬鹿ばっかりだからますます馬鹿になっちゃいました」と読むのが正しい。

(cuba14)

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