「人類の歴史とはポコチンとお金との闘争過程である」(cuba8)

人類の歴史を考えれば、ポコチンが大きい方がお金のあることよりもずっと偉い。

もともと人間はポコチンが大きい人だけが自信を持っていたわけだが、ポコチンに自信のないタイプの人がお金というものを発明し、そのお金を多く集めることによって、ポコチンに対抗しようとしたというのが、人間の歴史の発展過程なのだから。

この本質的なことは変わらないのだから、今でもポコチンが大きい人間は、常に自信たっぷりな態度をとることが出来るはずだ。

現代になってこの本質的なことが忘れられたように見える理由が、日本人の服装の変化に起因していることを指摘する人は少ない。

明治になるまでは、日本人はズボンをはいていなかった。
前が簡単に開く和服に、ふんどしを身につけていた(つけていない人もいた)。
すると日常的に道を歩いていても、着物がひらひらとしてポコチンがちらちら見えることが多かったわけだ。
業界用語でヨコチンというが、ふんどしの横からポコチンがはみ出していることもよくあったことだろう。

江戸時代では銭湯(湯屋)は男女混浴だったので、女性もじっくりと男性のポコチンの大きさ形を比較検討して、好みのもの(もちろん小さくては話にならない)を選ぶ習慣であった。

ところが明治時代以後、銭湯の男女混浴は禁止され、男性はズボンをはくようになり、するとポコチンを露出してダイレクトに女性を引き付けることが難しくなった。
ここで、価値観の大変革が起きた。

ポコチンが大きいという絶対的価値が、お金をたくさん持っているという本来は二次的な価値に敗北してしまったのだ。

ポコチンが大きいということは、人間存在の根本的価値であるから、もちろん、これは現代でも、僕たちの日常生活で非常な意味がある。
だから、ポコチンさえ大きければ(そして、ポコチンの格好さえよければ)たとえ貧乏でも十分な自信を持って堂々と生活できるはずだ。

ただ残念なことに、現在の学校教育の中では「ポコチンが大きい人は偉い」という本質的な教育がなされていない。

だから、女性も社会的経験の少ない若いうちは、「お金持ちよりポコチンが大きい方がいい」という絶対的真理になかなか気付かない。

真面目に考えて欲しいのだけれど、いくらお金持ちと結婚しても、夫のポコチンが小さくてSEXが楽しめないのでは人生は真っ暗じゃないでしょうか?

えー、そうじゃないかい?

これでは女性としてなんのために生まれてきたのか、わからない。

しかし社会というものは本質的なところでは間違っていなくって、こういう欲求不満の奥様には、昔は八百屋のご用聞きが相手をしてくれることになっていた。
歴史的文献には記載されていないが、八百屋のご用聞きのポコチンは「大根なみ」が条件だったそうだ。
現代ではマルハチ真綿のセールスマンがその代わりを勤めているとか。

さて、これまで、日常生活においては、人は「ポコチンが大きい」、「お金をたくさん持っている」という2つの場合に自信を持つことが出来る、と説明を加えてきた。

ここで旅の話に戻ろう。

旅では当然、「本当に旅行経験が豊富」な場合に自信を持てる。
が、もちろん「ポコチンが大きい」場合は絶対的な価値観なので、日常生活でも旅先でも、どこでもいつでもたっぷり自信を持てる。

では、「お金がある場合」に旅先で自信を持てるかというと、これは持てないんだね。

(cuba8)

cuba9

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