12:カンプチア航空機

この飛行機は、情報を仕入れてきたバンダナ君の話によると「カンボジアのものではなくて、どこからか借りている」らしい。
それで、搭乗手続きがあってバスに乗り込んだ後は、いったいどんなとんでもない飛行機なんだろう、ぼろぼろの輸送機ではないか、などと期待していた。
つい最近まではPKO問題で話題になっていたのだから、やはり輸送機で入る方がもっともらしいし、話としてもおもしろい。

ドンムアン空港のバスに乗って、タイ航空やエールフランスの747など、きれいな大型機の間をすり抜け、どんどんと隅っこに進む。
西洋人の旅行者もどういう飛行機に乗ることになるのか心配らしく、「あれだ!」と指差した先には、錆ついてパンクをした輸送機がある。
いくらなんでもあれではないだろう。
パンクを直すのに時間がかかるもの。

僕はセスナにも、10人乗り程度の小型機にも乗ったことがあるので、どうせならプロペラ機がいいな、と思う。
プロペラ機なら不時着しても助かる確率が高いだろうからだ。
前方に双発の中型プロペラ機が見えるので、あれだ!と喜んだら、その後ろを通り過ぎて止まった前には、ジェットエンジンが4つもついたまともな飛行機があった。

僕は真っ先に乗り込む。
その理由は、荷物置きのスペースを確保するためだ。

僕のバックパックは中途半端な大きさで、747などならば荷物入れのコンパートメントに悠々と入るのだが、少し小さな飛行機になるとうまく入らない。
だから、できるだけ早く飛行機に乗り込んで、荷物を入れる場所を取らなければならないとの強迫観念があるのだ。

しかし、問題はなかった。
このBRITISH AEROSPACE 146 は、エコノミークラスに1列に片側3席の6席で15列、ビジネスクラスが1列4席で3列の約100人が乗れるのに、乗客は30人程度で、がらがらだったからだ。

チェックインカウンターで一緒だったせいか、バンダナ君ハッキリ君と僕はひとまとめの席になっていた。
11−DとEとF。
で、もちろんFが窓側の席だ。
チェックインしたのは3人の中で一番後だったせいだろう、僕の席は11−D。
つまり、通路側だ。
女の子と一緒だって、窓側の席を取りたい僕だから、飛び立つとすぐに、前方にある窓側の空いた席へ移動した。

飛行機に乗ったことのある人には常識の話だが、席が指定してあっても移動するのは自由だ。
特に、夜行便で席が空いていれば、横になって寝る場所を確保するためにどっと席取りの移動が始まる。
747などでヨーロッパやアメリカ行く時は、横になれるかどうかは大問題なので、これは覚悟して心の準備をしておいたほうがいい。

機内案内のパンフレットにはDRUK-AIRとあったので、これはバンダナ君の情報通りDRUK-AIRという会社からの借り物なのかもしれない。
たった1時間のフライトなので、サービスはスナック程度と思っていたが、一応ジュースとコーヒー付きのランチが出た。

さて、僕は日本人学生旅行者のバンダナ君、ハッキリ君と一緒にプノンペンの宿まで行くつもりだが、機内ではとっとと別の席に移動した。
これが旅行者の本質だ。
つまり、利用できるところは互いに協力して利用し合うのだが、そのために自分の行動を縛ることはしない。

Y嬢と別れて空港に着いたら、そこでバンダナ君とハッキリ君に出会った。
この2人と別れれば、また別の人と出会うだろう。

これを逆に考えると、2人に出会えたのはY嬢と別れたからだ。
つまり、また別の人に出会うためには2人とも別れなければならないだろう。

こうして、人はいろいろな出会いと別れを繰り返し、そして人はその記憶を抱いたまま、一人ぼっちで寂しく死んでいく。

これが人生だ。

だから2人とべったり付き合う気は、もともとない。
変に人間関係ができてしまうと、別れにくくなることもあるからだ。

これがバンコクを初めとして世界中の日本人宿にざらにいる中途半端な旅行者と、僕のような本物の世界旅行者との違いだ。

中途半端な旅行者は、すぐに名前や出身地や住所を教え合う。
そして、旅行の話はせずに「どこどこの何々さんを知っている」と、おもしろくも何ともない、役に立たない世間話をする。
こんな面白くない話をするくらいなら、日本にいて安酒場で会社の上司の悪口を言っているほうがずっといい。

まあ、彼らは実はその日本社会からつまはじきになって旅行に出たのだが、日本社会が懐かしくて、そこで新しく落ちこぼれ同志の「日本社会」を作ろうとしているのだ。

自慢ではないが、僕は人の名前と顔をすぐに忘れる。
覚えていてもじゃまなだけだ。
だって、いくらでも新しい出会いがあるのだから、過去の大して面白くない出会いを覚えていたところで仕方がないのだ。

そういえば、待合室で出会ったジュライ男もその典型だった。
彼はバンコクに長期滞在しているのに、ミャンマーにも足を伸ばしたことがなく、カンボジアへではプノンペンで女を買っただけで、アンコールワットへも行かなかった。
ベトナムへも行かなかったのだ。
ベトナムへ行かない理由として、彼は「JTBに知ってるやつがいて、そいつにビザを頼もうとしたのだが、2万円かかるので止めた」と何の意味もないことを自慢気に話していた。

これが友達のいない、寂しい人間の典型的な言葉だ。

友達のいない、寂しい人間に限って、友達がいると言いたいものだ。

日本でもそうだが、自分の知人がどこどこ(大企業、または政府機関、または芸能界)にいると自分で言うやつは、その言うこと自体もだいたいは嘘だが、友達がいない人間である場合が多い。

こういうタイプの典型的な行動は、頼らなくてもいいことを知人に頼ろうとする。
ベトナムのビザを日本で取ると、JTBで2万円するのが本当かどうかは別にして、HISでは1万5千円だ。
バンコクで旅行代理店を通せば1200バーツ前後、つまり5千円弱だ。

なぜわざわざ知人を通して手配する必要があるだろう。
これは単純に、友達を通すことで、友情にしがみつきたいという惨めな寂しさの現れなのだ。

旅行をしているとよくいるのが、「私は友達が旅行代理店にいるので、そこで切符を買ったの。ちょっと高かったけれどしかたない」という、旅行好きのOLだ。
今どき友達の友達まで捜せば、一人や二人旅行代理店に勤めている人間は見つかるものだ。
なぜ、そこで他より高い切符を買う必要があるだろう?
答は、「自分に友達がいると確認したいため」だ。
わざわざ金を損してまで自分に友達関係があることを確認したいのだ。
そして、もちろん、金を出して確認するような関係は、そんなものは、友達関係ではない。
つまり、これは友達がいない人間である証拠だ。

まあ、それでは「一体全体、友達というものがもともと存在するかどうか?」となると、それは議論の余地があるだろう。

議論の余地はあるが、こんな議論は昔小学校や中学校で良くやった「本当の友情は存在するか」という友情の定義ごっこに陥るので、ここでは避けたい。

詳しく知りたい女性は僕のところに来てくれれば、「性関係があっても男女間に友情が存在するか」を実技で、じっくりと教えてあげるので、連絡下さい。

ただ僕は、知人に旅行会社を経営している女性がいるにもかかわらず、必ずHISとまず比較して、安いほうを選ぶ。
つまり、知人の旅行代理店からは切符を買ったことがない。

旅先で出会った人に、住所や本名を聞くことはない。

これは、この旅行記を我慢して読み続けていると、良く理解できるはずだ。

(カンプチア航空機)

 

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