『国際列車でセネガルからマリへの国境を越える』

【ダカールからバマコへの国際列車の前にて】
僕はレストランカーの夕定食、チキンかけご飯(2000フラン)とちょっと抑えてセネガルビールのFLAGの小瓶(500フラン)を取った。
窓立度住人氏と話をした後、モハメッドの部屋の上の段のベッドにもぐりこんで、早めに寝てしまった。

深夜過ぎ足音がして、コンパートメントのドアが開く。
うっすらと目を開けるとモハメッドが「パスポート」とささやく。

そうだそういえば、セネガルからマリに入るときにセネガルの出国審査マリの入国審査があるはずだ。
セネガルの出国審査ではパスポートを車掌に渡すと聞いていた。

いつもジーンズの前ポケットに突っ込んであるパスポートを取り出して渡す。
今までも特にヨーロッパの鉄道国境越えで、パスポートを渡してスタンプを押してもらったことが何回もある。

思い出深いのが、旧ユーゴスラビアのベオグラードからハンガリーの首都ブダペストへの鉄道旅行。
このときは同室にいたアルジェリア人3人のうち一人が国境で引きずりおろされ戻ってこないまま列車が出発してしまったっけ。

またバルト三国リトアニアの首都ビッリニュスからポーランドのワルシャワへの寝台列車に乗ったとき。
列車のルートが見事にベラルーシを通過していて、車内で無理やりにベラルーシのトランジット(通過)ビザを申請させられた。

ベラルーシの国境の町グロドノで一人だけ降ろされて列車を待たせた。
共産主義国家以来ずっと使われている、おそらくはKGBの建物に連れ込まれ小さな部屋の大きなテーブルの前に立たされて、質問を浴びせられたこともあったっけ。

このときは自分がスパイで摘発されたような気分になって、理由もないのに刑務所行きを覚悟したね。
階段を上るときのカンカンというさびしくも恐ろしい靴音の響きが記憶に残っている。

今回の国境越えはほとんど心配はない。
なぜって同じコンパートメントのモハメッド氏もザビエル君も友達になっていて、助け合える状況を作っている。

もちろん隣の部屋の窓立度氏とも仲良くなっているからだ。
逆に言うとこういうところでみんなが知り合いになり友達になるのは、旅の危険を防止しあう旅行者の本能なんだよ。

腕時計を見るとパスポートを渡したのは午前3時半、そのまままた気持ちよく寝てしまった。
周囲が明るくなりかけたころ列車が停車した。

ざわざわと人が動く気配がする。
ザビエルが「ケン、国境だよ。パスポートを取りに行こう!」と話しかける。

僕は急いで起き出して列車の外に飛び降りる。
時刻は午前7時半だ。

まわりは何もない野原だ。
数人が連れ立ってひとつの方向へ歩いていくので、そのあとをみんな一緒にたどる。

しばらく歩くと小さな建物があって、その前に乗客が集まる。
ここで預けたパスポートを渡されるようだ。

ここは「KIRIDA(キリダ)」という駅らしい。
しばらく待つと制服を着た黒人が部屋の外へ出てきて一人一人の名前を読み上げる。

外国人は別にされて、二等も寝台車も関係なく一人ずつ部屋に入り人定質問を受けてパスポートを手渡された。
僕はこの列車に乗っている日本人を見つけようとあたりを見回した。

僕らは寝台車だが、もちろん日本人の若者で二等に乗っているやつがいるはずだ。
すると一人それらしい若者を見つける。

若者に近寄り「二等で来たんだー?」と挨拶なしに声をかける。
この馴れ馴れしさが旅人の仁義なんだよ。

最初から友達として話をするってわけね。
この日本人の若者をさっそく僕たちがたむろするレストランカーに誘う。

つまりそのままレストランカーに乗り込んで、朝食を取りまた朝からビールを飲みだした。
彼は昨夜遅くセネガルの「TANBAKUNDA(タンバクンダ)」という町から、二等車に乗り込んだのだという。

この若者の名前は「雀部学(じゃんべ・まなぶ)」くん。
僕は「ジャンベさんは、ひょっとしてジャンベを学んでるんですか?」と鋭く質問する。

ジャンベ君は「ええ、日本でもジャンベをやってるんで、西アフリカに勉強に来たんです」とあっさり答える。
でも、そのジャンベとはいったい何なんだ?

その謎はこのまま読んでいれば、バマコの某ホテルの庭で明らかにされるであろう。
ちょうど昼ごろに「KAYES(ケイ)」という町に着いた。

ここはマリ国内でマリの入国スタンプを押してもらうはずだが、だれも入管の建物に行かない。
結局マリの入国スタンプがないままに、入国してしまったわけだ。
http://d.hatena.ne.jp/worldtraveller/20081023