ガンガ(ガンジス川)モーニングツアーと、インドは昔の方が旅は簡単だったという話。@バラナシ/インド
バラナシに夕方到着して、その夜に、翌朝のガンガモーニングツアーの申し込みをした
そして、翌朝、迎えのバスが来て、すんなりと、朝のガンガツアーに参加する。
いま思い返すと、インド旅行は昔の方が、単純明快で、楽だったんじゃないかな。
例えば、僕はバラナシでは、特に深く考えることもなく、「ガンガモーニングツアー」に参加した。
この後行くことになるアグラでは、タージマハルは、確かに一人で歩いていって、見学した。
でも、ファティープリスクリーに行ったときは、ガイドさんがいて、説明があったはっきりした記憶があるから、ツアーで行ったはずだ。
最初のデリーでは、市内ツアーに参加したのは間違いない。
ツアーで一緒になった、カップルのこと、話の内容を、はっきり覚えているしね。
ジャイプールでは、アンベール城と市内ツアーの記憶がある。
ツアーで行った、染物工場で、ステキな布を買ったからね。
つまり、1984−1985のインド旅行では、普通に、ある町へ行ったら、そこの市内ツアーに参加してたんだよ。
それで特にトラブルもなかった。
ところが、2007年にインド旅行に行ったときは、何が正規の市内ツアーか、わけがわからない。
半日の時間潰しに、市内ツアーにでも参加しようと思ったが、申し込み場所がわからない。
1984年のインドと21世紀になったインドでは、騙しも複雑になって、わけがわからなくjなったんだね。
だから、昔の方が、インド旅行はカンタンだった。
でも、1984年のまだまだ若かった(笑)僕は、もちろん、そんなことは考えなかった。
バラナシに到着した日に、ツアーに申し込んで、翌朝は、まだ暗いうちにおきて、ツアーに参加する。
ポカラから一緒だったカップルも、同じツアーに参加する。
これで、3日連続同じ行動を取るので、すっかり友達になっている。
ツーリストバンガローは、政府系の施設なので、ここがバラナシモーニングツアーを主催していたのだと思う。
でも、どこが主催していようと、朝のガンガを見れさえすれば、それでいい。
ガンガツアーは、まだ暗いうちに出発。
ツーリストバンガローから大形バスに乗り込む。
ツーリストバンガローには、観光局もあったので、夜明け前にもかかわらず、他の宿からも欧米人旅行者が集まってきた。
真っ暗なバラナシを走って、ガンガへ。
ガンガの岸辺から、ボートに乗って、ボートから朝日が昇って来るのを見ることになる。
ちょうど、朝日が昇るときに、川岸には、長いヒゲを生やした行者or聖者がたたずんで、お祈りをしているのが見えた。
朝日が昇った後は、ボートは川岸に沿って、ゆっくりと移動し、川に沿った建物群を見ていく。
このあと僕は何度も、ガンガへ来ることになるが、最初にこの風景を見られたのはよかった。
ちょっとイヤだと思ったのが、日本人宿として有名だった「久美子ハウス」だった。
日本語で「久美子ハウス」という文字が、ガンガの岸に大きく書いてあった。
わかりやすいかもしれないが、ちょっとやりすぎではなかったかな。
無神経だと腹が立った。
だってだよ、バラナシに来て、インドの文化に触れて陶然としているのに、日本語の安宿の宣伝なんか見たくないよ。
ま、いまどうなっているか、わかりませんが。
川から眺めるバラナシの風景は、全く何も先入観がなかったので、驚きが大きかった。
ガンガツアーは、夜がはっきりと明けたら、まもなく終了。
また、バスでツーリストバンガローへ戻る。
もちろん、ガンガに残ってもいいが、朝早すぎるので、何もすることがないし、いったん宿へ帰った方が無難です。
ネパールから一緒だった日本人のカップルと一緒に、朝食をとって、いろいろ話をする。
僕は、このホテルが気に入ったので、残ると宣言する。
ガンガ沿いの安宿へ移動するのは、面倒だ。
また、「久美子ハウス」の日本文字を見て、ああいう無神経な宿には泊まりたくなかったからね。
もともと、イメージとして、インドの安宿に泊まる日本人に対しての、拒否反応が根本にある。
僕はこれまでの旅行では、結構金のかかる旅をしていたので、日本人インド旅行者全体に対して、ある偏見があったのは事実だ。
僕と3日も行動をともにしている、日本人カップルの目的は、インド北部リシュケシュにある道場(アシュラム)へ行くことらしい。
だから、バラナシ自体は、僕と同じように、それほどの興味はなく、長く居るつもりもないようだ。
結局2人も、このままツーリストバンガローにいることに決めた。
僕は二人と別れて、またガンガへ戻る。
宿の玄関へ出て、待っていたオートリキシャーに「ダシャーシュワメードガート」と言う。
さてこれが僕の、初めての、インドでの単独行動でした。