カトマンドゥからポカラまで、またスイスバスに乗る。ポカラには、知っている人はもう誰もいなかった。僕は明朝のバラナシ行きバスを予約する。@ポカラ/ネパール
カトマンドゥで、ポカラから連れてきて、入院した女の子の見舞いをしていた。
担当の、オーストラリア人美人女医さんとも、仲良くなって、パーティにも誘われた。
カトマンドゥゲストハウスのスタッフとも、顔を合わせれば、あれこれ世間話をする仲になった。
また、この時期のタメル地区は、外国人バックパッカーだらけで、ちょっと目が合えば、気軽に話をしたりする。
つまり、とても居心地がよかった。
しかし、ある夜に、軽く酔って、居心地のいいベッドに転がり込んだとき、「インドへ行かなければ…(汗)」と、思った。
というのは、僕は、「初めてのインド旅行」をしているわけだからね。
ネパールでは、ちょっと変わった経験もしたし、友達もできた。
でも、人はいつまでも、居心地のいいところに留まるわけにはいかない。
これが、本格的な海外個人旅行者の哲学(旅行哲学)だ。
翌朝すぐ発つことはできないので、まず、翌日のポカラへのバスの切符を買った。
最初のときと同じ、スイスバスで、ポカラまで7時間だ。
カトマンドゥ病院へ行ったが、この日は、女医さんも休みで、入院している女の子にも会えなかった。
女の子には、明日ポカラへ戻るというメモを残した。
入院している女性のことを報告していた日本大使館へ行って、事情を説明した。
女医さんの自宅の電話番号を教えてもらっていたので、かけてみる。
男性が出てきたが、彼はどうやら女医さんのボーイフレンドみたいで、僕からの電話にちょっと焦っていた(笑)。
「明日出発するので、会えませんが、お世話になりました」と、女医さんへの言伝(ことづて)を頼んだ。
あとは、そう、ホテルのスタッフに挨拶をした。
その時に、自分の住所を教えて、はっきりと「カメラ雑誌とカタログを送るよ」と約束したんだった。
タメル地区でちょっと早い夕食を取って、宿に戻ると、僕がいないときに、入院している女の子が訪ねてきたそうだ。
会えなかったのも運命と、それ以上の連絡は取らなかった。
これで僕の2度目のカトマンドゥ滞在は終了。
それ以来、30年間、行ってないけどね。
翌日に、スイスバスで、ポカラへ移動。
前回と違って、このバスには、日本人は、僕一人だった。
ポカラでは、以前泊まっていた、ゲストハウスに宿泊。
当然のことだが、以前知り合った日本人も欧米人もいなかった。
これは自然のこと。
旅行者が集まって、あるとき、ある場所で、変に盛り上がったりする。
でも、その楽しい時間はあっという間に過ぎ去ってしまって、取り戻すことはできない。
もちろん僕ならば、また同じような人間関係は作れる。
ただそれが、面白いかどうかは別だね。
例えば僕は、ロサンゼルスの「ホテル加宝」には、1988年から2002年まで毎年行って、一ヶ月ほど滞在していた。
知り合った人がいなくなったりしたが、また新しい友人関係を作っていた。
それはそれで、面白かったし、いろんな出会いがあったよ。
僕だと、面白くない人たちでも、何とか面白くできるからね。
でも、僕はポカラに長居して、また新しく、人間関係をつくろうとは思わない。
これで、心置きなく、スッキリとネパールを出ることができる。
僕はポカラで、以前調べていた、「ポカラから、インドのバラナシへの通し切符」を買った。
ポカラの道端から出るおんぼろバス(これは確認してある)に乗ればいい。
話では、「17時間でバラナシへ到着する」とか。
それでは国境までは何時間かかって、それからバスを乗り継いで…とか、細かいことは考えない。
だって、チラッと見たバスが、かなり信用できなさそうだったしね。
ただ、ポカラから、インドへは下り坂だ。
だから、「バスのエンジンが止まったって、インドまでは行くだろう」と考えた。
あと、本を何冊か、ポカラで買った。
そこで、問題なのが、「The Rising Sun」のこと。
いま思い出したのだが、この本は日本でも読んでたから、もちろん日本から持ってきたはずだ。
ではなぜ、他の本を読んでいたかというと、これは戦争の本なので、疲れるんだよね。
でもインドに入ったら、本気で読み出して、インド旅行が終わるころには、一冊読み終えた。
とにかく厚い本で、ペーパーバックなので、読んだ部分を破って捨てて、薄くなるのを楽しみにしていたよ。
ま、インドのビザは、日本で取ってきた。
お金はドルのキャッシュと、ドルのトラベラーズチェックで、問題ない。
お金があることと、お金の仕舞い場所をはっきり確認した。
よし、明日はインドだ♪
と思ったが、そうは行かないのが、海外個人旅行というものなんだね。