カトマンドゥゲストハウスに泊まって、タメル地区を歩き、セーターを買って、女の子にプレゼントする@カトマンドゥ/ネパール
カトマンドゥゲストハウスの僕のシングルルームは、大きくはなかったが、壁も厚くて、ほっとする感じのところだった。
毎日、カトマンドゥホスピタルへ女の子の見舞いに行くのが僕のやること。
特に大事件は起こらなかったので、思い出すままに、そのころのことを書いてみたい。
○ 1984年のカトマンドゥの両替。
ただそれだけなので、ぶらぶらとタメル地区を歩いては、いろんな店を冷やかしていた。
正確には記憶してないが、この時代、カトマンドゥでは、ドルの両替は、商店の奥でやった。
銀行よりも、実勢レートがよかったようだ。
また、このときは、ドルのトラベラーズチェックの両替もやってくれた。
一般的には、トラベラーズチェックを現地通貨に両替するときは、両替商や銀行でやるもの。
ドルのトラベラーズチェックを、ドルの現金にして、そのドルの現金をお店で、銀行よりもいいレートで現地通貨にするのはよくある話。
タメル地区の店では、ドルのトラベラーズチェックから直接現地通貨に変わったのが、ちょっと珍しかった。
両替については、いろんなやり方があるので、面白い話はたくさん知ってます。
○ タメル地区で売っていたセーターの話。
あと、覚えているのが、この1984年ごろ、タメル地区では、観光客向けのセーターが人気だった。
それがどの店でも同じもので、、淡い感じの色で、模様も、どの店も、似ていた。
見れば、色合いと柄で、タメルのセーターというのはすぐにわかった。
僕も気に入ったので、自分用に一枚買った。
すると入院している女性にも、プレゼントしようと、自然に思う。
僕は、結構人にやさしいところもあるし、気を使うところがあるね。
ただそれが、本当にやさしさなのか、ただの自己満足ではないのか、と考えたりもするけど。
セーターには、いろいろサイズがあったので、「サイズが合わなければ、取り替えます」と、英語で紙に書いてもらった。
病院に見舞いに行った時、入院中の女の子に、セーターと紙を渡して、交換出来ると告げて、店の場所を説明した。
女の子は、横にいた白人美人女医さんに、「プレゼントもらったー♪」と告げて、喜んでいるようだった。
○ 入院した女の子の話
女医さんに聞くと、女の子は、精神的に参っていたようだ、という話。
肉体的には、健康だ。
他の欧米人の入院患者もいるが、女の子は英語は話せるので、問題はない。
友達もできたみたいで、一人旅をしているよりも、面白かったのではないかと思う。
案外、変わった経験として、いい想い出として、残ってるかもしれないね。
海外旅行なんて、トラブルがつきものだし、終わりよければそれでいい。
すべては年月の中で浄化されて、きれいな想い出に変わるもの。
そうでなければ、人は想い出に押し潰されて、生きていけないよ。
僕としては、あとしばらく様子を見て、女の子がこのまま落ち着くのを見て、インドへ行こうとは考えている。
なにしろ、これは、僕の初めての本格的な、バックパッカー旅行なのだしね。
○ リキシャーマンと山道を行く。
あと、覚えているのが、カトマンドゥゲストハウスで、リキシャーマンに声をかけられたこと。
人力車に乗って、どこか、丘の上のお寺に行かないかという、お誘いでした。
僕はこのときまで、リキシャーに乗ったことがなかった。
バングラデシュのダッカで、乗ろうとしたら、言葉が通じずに乗車拒否されたしね。
だから、声をかけられて、行き先に特に興味もなかったが、リキシャーに乗ること自体に興味を持って、リキシャーに乗った。
ところが、リキシャーマンは、ガリガリの身体をしたおじいさんなので、登り道になったら、すぐに止まる。
結局、リキシャーを僕が押して、2人で歩いたんだ。
ただ、やはりこれは、うまく騙されたんじゃないかとも思う。
2005年に、東インドのブバネシュワールで、駅からプリー行きのバスの出発場所までリキシャーに乗った
そのときも、上り坂でリキシャーが動かなくなって、僕は押したからね。
結局、リキシャーマンは、客が外国人の場合は、リキシャーをこがずに、客に押させて、チップをもらうのが、テクニックなのでしょう。
これは、たったいま、この文章を書いていて、気がついたことだけど(笑)。
○ 本屋で、ペーパーバックを読む。
上にも書いたように、僕は毎日病院に見舞いに行く以外は、特にやることもなかった。
だから、基本的には、本を読んでいた。
この時代だと、海外には、日本語の本はほとんどなかったし、あったとしても、面白そうなものはなかった。
だから、英語の本を借りては、ものすごい速度で読んで、次の日は、また別の本を借りるようなことをやった。
ポカラにも本屋があって、売った本を三分の一で評価して、別の本を買うときにで交換してくれた。
買取のときは、五分の一だったと思うけれど、今は誰も気にしないでしょう。
いまは、海外にも日本語の本がたくさん売ってある。
すると、どうしても、日本語の本を読んでしまう。
だから、今の海外旅行は、変化が少なすぎるんだね。
いま海外旅行に出ても、いつもネットで日本とつながっているし、情報も日本語で入ってくる。
ただそれでは、日本にいるのと一緒だから、海外旅行に出ない方がいいと思うよ。
海外の観光ビデオを見ていた方が安上がりだし、安全だからね(笑)。
○ 英語でどんどん外国人と話をする。
前にも書いたと思うが、僕が泊まっていた「カドマンドゥゲストハウス」は、各国の登山隊も泊まる、有名宿だった。
ただ、僕がいた時期は、本当に日本人とは一人も会わなかった。
これを考えてみると、一つには、カトマンドゥゲストハウスがまともすぎて、普通の日本人バックパッカーは泊まらなかっただろうということ。
僕の場合は、入院している女の子の担当美人女医さんのアドバイスで、わかりやすいというのもあって、ここに決めたわけだが。
だから、英語の本を読んでる上に、一日中英語を話すことになった。
もともと僕は、おしゃべりで、お気楽な人間。
英語も日本語も同じ程度にしゃべれる。
それと、僕は、日本人的な考え方をしない(常に冗談を考えている)。
だから、ゲストハウスで会った人で、話しやすそうな人には片っ端から声をかけて、話をしていた。
その中の白人美女からは、「こんなに英語がしゃべれる日本人に、初めて会った(感動)!」という言葉もいただいた。
常に面白いことを言っている(面白い日本人を演じている?)ので、すれ違うたびに、声がかかる。
そういう、エンタテイナーとして、生きてました。
○ カメラのカタログと雑誌を送った話。
カトマンドゥゲストハウスのフロントにいたネパール人男性とは、しょっちゅう話をしていた。
彼はカメラが趣味らしかったが、僕もその時代は、カメラを持っていた。
この旅は、1984-1985だが、日本ではその時代、カメラ雑誌が多かったはずだ。
しかも、パンチラ写真とか、アイドル写真とか、投稿写真とか、そういう時代だった。
日本では、一眼レフのニコンを持っていて、交換レンズもある程度揃えていた。
でも、インド旅行には、小型の防水カメラを持ってきた。
この時期は、写真の現像代が大変だったよ。
サービス版で一枚焼くと、50円かかってた(恐)。
それはそれとして、防水カメラを持ってたものだから、ホテルのスタッフと、写真談義をしていたわけけだ。
気軽に、「日本に帰ったら、カメラのカタログを送るよ」と約束した。
そのあと当然(?!)、忘れていたら、日本に催促のはがきが送られてきた。
そこで、カタログとカメラの雑誌程度を送った。
○ トレッキング装備の話。
前にも書いたが、カトマンドゥゲストハウス近くを歩いていると、トレッキングの声がよくかかった。
僕が「何も用意してないから」と断ると、トレッキングの装備は、レンタルもできるとのこと。
ここに来たトレッカー、登山家のみなさんが、残していった登山用品がたくさんあって、中古を売っていたり、レンタルしていたりする。
だから、急にトレッキングをやりたくなっても、なんとかなるわけだ。
ただもちろん、僕は、山歩きをするキモチは、もともと全くないからね(笑)。
つまり、僕は山幸彦ではないんだね。
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こういう風に過ごしていて、だんだん女の子の体調も回復してきた。
僕は、女医さんと毎日会っていたので、雑談をして、冗談を言って、結構仲良くなった。
僕も大人なので、白人美人女医さんが僕に興味を持ってるのはわかる。
知的な女性は、積極的なものだからね。
パーティに誘われてもいた。
いつ出発するか決めていなかったので、参加する返事をした。
そういうふうに過ごしていたある夜、急に、「そうだ、インドへ行かなければ(汗)!」と思った。
だって、僕は、インド旅行に来ていて、南インドからスリランカに飛ぶんだから。
いくらカトマンドゥが居心地がよくて、知り合いもできて、話し相手もたくさんいたって、それは、ちがう。
インド旅行をしなければ。
僕は、ポカラへ戻ると、決意した。